社会学は必要か不要か〜胡散臭い、役に立たない、学問でない〜

文明
https://ja.wikipedia.org/wiki/上野千鶴子
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 電網世界では、社会学は不要と認識されてきた。社会学者は社会性のない異常者と認識されてきた。それだけでなく、社会学は学問と認識されず、社会学者は学者の水準に達していないと審判される。

以下では、俺は社会学は必要かを提示する。結論から言って、俺も社会学は不要であると審判した。公的な資金は社会学に投入されるべきでない。

加えて、法律による社会学の保護は不要である。この問題に関して、俺らは社会学それ自体の問題と(大和民族の)社会学者という動物の問題を提示してみよう。

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社会学は必要か不要か

 俺の審判:社会学者が社会それ自体を分析する必要性はないので、社会学それ自体が不要である。

 社会学者が社会それ自体を分析する必要性はないので、社会学それ自体が不要である。俺らがサッカーの研究者やAV動画(官能動画)の研究者やiphoneの研究者、そして宗教の研究者を考える時、俺らは社会学の不要性を感覚的に把握することができる。まず、俺らは学問とは何であるかについて考えてみよう。

学問と社会学

 学問(行為)とは、対象を分析する行為である。社会学とは、社会(対象)を分析する行為である。正確には、学問(行為)とは、他人に作ってもらった対象を分析する行為である。だから、社会学とは、(社会学者が)民に作ってもらった社会を分析する行為である。

俺らが社会学の必要性を考える時、俺らは(社会学者が)民に作ってもらった社会を分析することは必要であるのを考える必要がある。言い換えると、社会学の必要性は、社会学者による “民に作ってもらった社会” の分析の必要性に言い換えられる。

大和民族の日本国民の大部分は「俺らが作ってきた社会をわざわざ社会学者(笑)に分析してもらう必要はない」と審判した。その結果、彼らは社会学を不要と結論づけた。以下では、その感覚を把握するために、いつくかの具体例を提示しよう。

具体例

 例えば、俺らがサッカー学やAV動画(官能動画)学やiphone学、そして宗教学を考える時、俺らはそれらの学問を不要と審判する。なぜなら、俺らは公的な資金や法律の保護の下で、サッカーやiphoneを研究する必要はないと審判する。それらはサッカーの内部やAV業界内部、Apple社内部、そして宗教関係者内部で自費で研究すれば良いと審判する。

サッカー選手はサッカーを競技できないサッカー学者に(偉そうに)分析されたいと審判しない。AV俳優は性行為をまともに競技できないAV動画学者に(偉そうに)分析されたいと審判しない。Apple社社員はiphoneを生産できないiphone学者に(偉そうに)分析されたいと審判しない。宗教家や宗教信者はまともな宗教を立ち上げられない宗教学者に(偉そうに)分析されたいと審判しない。

上記の心情は社会学者に対する民の心情に近い。もし社会学者が社会を分析するならば、彼らは社会の中で競技したり、管理したり、社会それ自体を形成してみれば良い。社会の童貞や処女がAV動画学者になり、AVを研究(分析)して、偉そうに指図している。これは喜劇的である。普通の民にとって重要なことは競技である。

分析行為それ自体の不要性

 俺らが社会学を考える時、俺らは社会を分析する行為それ自体の必要性を考える。例えば、俺らは俺ら自身の性行為を学問のように分析する必要はないと審判する。たとえ俺らが自己の性行為を分析するとしても、もしその分析が性行為の実際の競技に結びつかないならば、俺らは性行為に対する分析(研究)行為それ自体を不要とするだろう。

俺らが性行為を分析するとき、俺らは性行為に関する「知識」を獲得する。その知識の目的とは、その知識を性行為という運動競技に結びつけることである。では、社会学の分析や知識は社会を作ってくれていた民の実際の競技に結びついたのだろうか?答えはいいえであり、むしろ民の運動競技を妨害しているようにも見える。

この状態は次である。性行為に対する分析とその結果による知識は性行為のより良い競技に結びつかなければいけない。にも関わらず、性行為に対する分析それ自体が性行為という運動競技を妨害している。サッカーで例えると、サッカーの分析行為それ自体がサッカー選手や関係者の競技それ自体を妨害している。

社会学者は必要か不要か

 俺の審判:社会学者は人間社会における競技や社会の管理・統治、そして社会の形成を実行できない。その種の動物が人間社会を分析する必要はない。そして、その種の動物は社会にとって不要である。

 上記では、俺は社会学それ自体の不要性を提示した。以下では、俺は社会学者自体の不要性を提示する。たとえ社会学が必要であるとしても、俺は社会学者自体が不要であると審判する。

社会学者

 大和民族の社会学者は人間社会の管理や統治や形成は当然のこと、彼らは人間社会における人間競技を競技できていない。彼らは自己の宗教を持たないので、人間競技を実行するために必要な善悪や性規範、お金の概念や契約の概念を持っていない。酷い場合には、彼らは契約相手とまともに会話できない。都合が悪くなると、叫んだり、怒鳴ったり、侮辱したりする。

社会学者とは、社会を分析する人間である。けれども、大和民族の社会学者はサッカーの試合に迷い込み乱入した犬のように、社会それ自体を認識していないように見える。もし彼らが社会それ自体を認識していないならば、彼らは社会それ自体を分析できないだろう。

実際、大和民族の社会学者は自己の宗教を持っていない。自己の宗教を持っていないことは、自己の善悪や性規範、お金の概念や契約の概念を持っていないことである。なんの運動競技も実行してこなかった人間は社会をまともに分析できないだろう。彼らは人間社会における民が自己の宗教によって運動してきたことすら認識していないように見える。

分析される側がより知的

 社会学者は人間社会を分析する人間である。しかし、大和民族の社会学者の場合、分析される民の方が分析する社会学者よりも知的である。その結果、大和民族の大部分は社会学者を必要としない。

一般的に、学問は、分析する主体が分析される対象よりも知的であるときのみ、学問は成立する。社会学の場合、分析される側の方が知的であり、競技できて、人間社会を管理・統治できて、そして人間社会を形成できる。それに対して、社会学者は人間社会で競技できず、人間社会を管理・統治できず、人間社会を形成できない。加えて、彼らは人間社会を分析すらできない。

自然科学や動物学が成立するのは、人間は創造主が創造した自然界よりも知的であり、人間は動物よりも知的であるからである。もし動物が人間よりも知的であるならば、動物学は成立しない。大和民族の社会学者は知的に劣等な動物として平民によって分析される側になってしまっている。社会学者が動物側であり、平民が人間側である。