明治維新は近代化?フィリピン化?過ちと白人崇拝と東南アジア化[薩摩長州vs幕府会津]

歴史
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 明治維新は近代化と呼ばれ、良いものとして過剰に評価されてきた。しかし、その実態は白人の家畜化や奴隷化であった。明治維新は日本人をフィリピン化させた。

明治維新は日本人や日本国や日本列島にとって、米国によるイラクの転覆のような破壊工作に等しかった。その結果、日本人はスペイン人に虐殺されたフィリピン人になった。上記の風刺画を見ると、俺はある種の東南アジア人的な性質を日本人の中に見た。

上記の動画は非常に素晴らしい。明治維新の前の和風な何かが残っていると審判した。会津の人間は薩摩や長州を嫌ってきただろう。それは彼らによる虐殺だけでなく、和風という ‘ 侍の魂 ‘ を破壊したからである。

明治維新とは何か

 明治維新 明治維新とは、日本人(大和民族)の東洋小人種としての自己認識を破壊して、日本人を奴隷化・家畜化させた破壊工作であった。その結果、日本人はフィリピン化や中南米化した。

近代化という単語の意味と近代化でない明治維新

──誰もが明治維新こそが日本を近代に導き、明治維新がなければ日本は植民地化されたはずだと信じ込まされていた。公教育がそのように教え込んできたのである。つまり、明治維新こそは歴史上、無条件に「正義」であり続けたのである。──

http://news.kodansha.co.jp/20170923_b01

 近代化という言葉はフランスの普遍主義と同じであり、悪い単語(レッド・カード)である。普遍主義の意味は、たとえフランス白人が黒人の文化や言語を完全に破壊するとしても、フランスの文化や文明は普遍的であるので、その行為は悪くないである(だから、白人は黒人奴隷の歴史的な義務や責任を負わない)。近代化という単語も同様であり、たとえイギリスやフランスの白人が日本文化や言語や価値観を破壊したとしても、その行為は日本の近代化であるので、彼らには責任は存在しないである。

だから、日本人や日本人を含むそのほかの東洋人は ‘ 近代化 ‘ という単語を使用すべきでない。日本人が明治維新を近代化と呼ぶとき、白人による破壊工作が皇帝かつ隠蔽されて、なぜか日本人が明治維新の後の行為の責任を取らなければいけない。日本人にとって、明治維新とはシャリーア法の押し付けであったので、日本人や朝鮮人や台湾人やモンゴル人はその歴史的な責任を負う必要はない。

日常的には、俺が俺の家庭の取り決めを君の家庭に押し付ける時、君はその取り決めに関する君の行為の責任を負わない。同様に、民主制度は普遍主義でも人類の制度でもなく、白人の都合による制度である。だから、日本人を含む東洋人は近代以後の東洋人の行為の責任を一切負わない。

明治維新とは大和民族のフィリピン化

 日本人の一部は明治維新を近代化と誤審してきた。俺は明治維新は日本人のフィリピン人化であると審判する。実際、九州は東洋よりも文化的に東南アジアのようである。

これは沖縄を見ればわかるように、沖縄は少し東南アジア人に近く、フィリピン人やタイ人にように、白人が大好きである。九州の人間は沖縄や東南アジアに近く、本土の日本人よりも白人好きであるのは容易に予測できるだろう。

東南アジアに近い九州が日本列島を強制的に支配した結果、日本全体がフィリピンをはじめとする東南アジア化したように思える。実際、日本人は白人大好きであり、白人に媚びへつらう。そして、彼らは白人の意見を神の意見のようにありがたがって聞く。この種の行為はアメリカモンゴロイド人がスペイン人を白い神と崇拝したことに似ている。

明治維新の悪影響と日本国の異常性

幸福の科学 本部

景観とカタカナ用語

 明治維新の結果、日本国の景観が悪化した。さらに、日本国における日本語、特にカタカナ用語が蔓延した。俺が日本人のカタカナ用語を見る時、日本人は言語の意味や重要性すら認識できないと審判する。(景観について)(カタカナ

明治維新の後、薩摩や長州の土人はなぜか西洋風建築を取り入れた。彼らの行為は記事画像のmattと同じ滑稽さである。mattの顔が迷走して、ぐちゃぐちゃになってきたように、日本列島における東洋建築もmattみたいにぐちゃぐちゃになった。

明治維新は建築や文化に一切興味を持たない土人が日本列島を支配した。その結果、日本の建築も日本語もめちゃくちゃになってしまった。日本列島全体が東南アジアのスラム街となった。

善悪判断の喪失と思考の喪失

 明治維新は日本人の善悪の判断を断絶させた。その結果、日本人は何が真理であるかを判断する能力を失った。そのため、日本人は白人のモノマネばかりを繰り返してきた。

善悪の判断とはレッド・カードのようなものである。明治維新の前までは、日本人は自己のレッド・カードを持っていた。しかし、明治維新はそのレッド・カードを奪い破壊して、白人のレッドカードを日本人に植え付けた。

善悪の判断の喪失は日本人の知の肉便器を見ると、わかりやすい。例えば、菊池誠という大阪大学教員は契約相手を馬鹿・あほ・とんでも・カルトと侮辱するが、彼は注意されても、その行為を改善しない。なぜなら、菊池はその行為が良いか悪いかを判断できない。

 善悪の判断の喪失は男女平等にも関係する。平等はキリスト教の概念である。なぜかキリスト教でない日本人が男女平等に賛成する。これは非常に奇妙である。

善悪の判断は景観や商業にも関係する。景観の悪化は善悪の判断の喪失であり、拝金主義的な商業は近江商人の精神の喪失でもある。彼らは売り手よし、書いてよし、世間良しという善悪の判断を持っていた。

現在、この種の考えを持っている企業は存在するだろうか?俺はいいえと回答する。明治維新はこの種の健全な精神すら破壊した。だから、企業は短期的な利益のための外国人労働者すら受け入れようとする。そして、それを日本人に押し付ける。

 日本人の学者気取りや政治家や企業の経営者の異常なまでの無責任さは明治維新による善悪の判断の破壊に関係しているように思える。日本人の学者気取りも借りたお金を返さないし、彼らは嘘をつくことをやめられない。彼らの行為は非常にフィリピン的である。

なぜなら、彼らは嘘が正当であるか、借りたお金を返さないことが正当であるかを判断できなくなった。たとえ俺が彼らを批判するとしても、彼らはフィリピン人のように言い訳を繰り返して、借りたお金を返そうとしない。

教育機関と白人崇拝

 明治維新は日本人の教育機関を破壊して、白人崇拝を受け付ける場所となった。日本国における教育機関、特に大学はキリスト教の道徳を日本人に植え付ける洗脳機関になった。例えば、アメリカ大陸における多様性は俺らモンゴロイド人種の虐殺や絶滅の結果であるが、日本国の大学では、それが素晴らしいものであると教育される。

この状態はカメルーンやイスラエルで、黒人奴隷やナチスが素晴らしいと教育されているようなものである。大学という機関はカルト宗教かつ家畜製造所である。大学は白人コンプの異常性を促進して、日本人を奴隷化や家畜化するための機関である。

過去否定と歴史否定〜なぜか白人視点〜

 日本人の学者気取りや弁護士や政治家はなぜか白人視点で日本人の歴史を語ってきた。例えば、彼らはナチスを彼ら自身で例えるのが好きである。しかし、ドイツ人はキリスト教の白人であり、無宗教の東洋人でない。

 今日の日本人は自国の過去について全く知ろうとしない。日本の歴史について、ある日本人に尋ねたところ、彼ははっきりとこう言った。

 「私たちには歴史はありません。我々の歴史はやっと今から始まるのです。」

奢れる白人と戦うための日本近代史

 上記における今日の日本人や我々は薩摩や長州の人間であるだろう。九州の人間は香港の人間と同様に、歴史や文明を認識できない。だから、明治維新は日本の歴史を完全に破壊してしまったように見える。その結果、日本人はなぜか白人視点で物事を語ってきた。

 そうすればとうの昔に白人たちと仲間になって、彼らから対等なパートナーとして認めてもらえたはずだ。

 (中略)

 しかし、愚かな幕府のせいで、我々は世界から取り残されてしまった。こうして明治政府は幕府をスケープゴートにし、過去を捨て、欧米に追いつく決心をした。

奢れる白人と戦うための日本近代史

 この明治政府は薩摩と長州であり、日本でない。薩摩と長州には、過去が存在しない。なぜなら、九州は日本列島の中心でなかった。香港に近い。

俺の印象によると、彼らは歴史を認識できなかっただろう。さらに、彼らは江戸の歴史を採用するとき、明治政府の正当性が揺らぎ、幕府が正当性を持つ可能性があった。だから、明治政府は白人の歴史や白人の世界観を採用する必要があった。

なぜなら、その時、明治政府による幕府の破壊が正当化された。明治政府の正当性とは、幕府の否定、つまり日本の否定であった。もし明治維新が中部や関西手動であったならば、彼らは平安時代や安土桃山における正当性を持ち出して、明治政府の正当性を主張できただろう。

 しかし、日本列島におけるなんら正当性を持たない薩摩と九州の土人は日本の否定と白人賛美による正当性しか獲得できなかった。

白人ハーフ好き日本人と自分の顔がないフィリピン人

 日本人は白人ハーフ(中間種)を異常に好んできた。この種の性質は非常にフィリピン人的である。彼らもまた白人ハーフを好む。明治維新の負の影響はこういうところにもあるように見える。

フィリピン人は白人ハーフをフィリピン人と呼ぶことによって、彼らはフィリピン人としての自分を否定し続けてきた。フィリピン人は白人との混血である中間種を <<フィリピン人>> と呼んで美男美女気分を味わってきた。日本人もこれに近い。

日本人は彼ら自身がアジア人(モンゴロイド 人)であることを嫌っている。だから、彼らは白人の遺伝子に乞食して、それを日本人と呼ぶことによって、イケメンになった気分を味わいたい。さらに、その時、黒人奴隷やモンゴロイド人種の虐殺に関して、半分白人としての歴史的な義務や責任を負わなくて済むようにしたい。

 この種の行為は単なる自己否定でしかないが、善悪の判断を失った日本猿はこんな簡単なことすら判断できなくなった。自分で自分の自己デザインを想像するという努力すら、彼らは放棄してしまった。彼らはフィリピン人と同様に、白人の価値観や遺伝子に乞食することしか考えていない。

この種の行為は東南アジアや中南米に非常に近い。彼らは彼ら自身の文化や自己デザインを彼ら自身で創造しようとしてこなかった。彼らは乞食することしか考えていない。

さらに悪いことに、この種の動物は白人に乞食した何かを使って、東洋人を人種的にバカにしたり、見下したりしてきた。その何かとは、白人の遺伝子や文化や文明や法律であった。日本人はまさにこれである。

 フィリピン人も中南米のわけわからない人間も、そして日本人も彼ら自身はより白人に近いと錯覚している。日本人がこの種のスペイン系フィリピン人を見て、内心バカにするように、白人は白人のモノマネを繰り返す日本人を見て、完全にバカにしている。しかし、日本人は見て見ぬふりをする。

日本人のフィリピン人化が進行するにつれて、日本人と白人との中間種も東南アジア化や中南米化するだろう。実際、フィリピン人と白人と中間種は半分フィリピン人であるので、文化的や文明的であるとしても尊敬されない。白人と東南アジア人との中間種はあくまでヒスパニックとかの枠である。

日本人の東南アジア化、特にフィリピン人化に従い、白人との中間種もフィリピン人化していくだろう。その時、日本人と白人との中間種は東南アジア人と中南米人と彼ら自身の違いを認識できなくなるだろう。彼らは彼ら自身の半分が白人であることを誇り、有色人種を見下して永遠に生きることになるだろう。

 たとえ俺がこの種の発言を提示するとしても、白人との中間種はフィリピン人化しているので、真剣な返答が提示されない。この真剣さの欠如が非常にフィリピン人的である。もし白人との中間種が彼らの半分がアジア人であること嫌い、白人の遺伝子にさらに乞食しようとするならば、なぜ彼らは生きている必要があるのだろうか?

最初から、実験室で純粋な白人の子供を遺伝子実験で作れば良い。彼らにとって、彼らの人生の意味とは何であるか?中間種やフィリピン人は生きている意味があるの?どうせ白人の遺伝子に乞食するでしょう?

自力で勉強する意味はあるの?白人の遺伝子に乞食すれば?自力で科学する必要あるの?ニュートンの遺伝子に乞食すれば?俺にとって、人生の意味とは、生きる意味とは、抽象的な哲学の話でなく日常的な話である。

 俺にとって、生きる意味とは、自己を自分自身で自力で創造できることである。白人の遺伝子やより優秀なホモ・サピエンスの遺伝子に乞食せずに、自分のデザインを自力で作れることは、人間の本質の一つである。自力で科学できる、自力で数学できる、自力で自己デザインを創造できる、自力で政治制度を創造できる、自力で言語を作れる、自力で自己の遺伝子を形成できる、自力で文明を作れる。

だから、俺らは生きる意味を持っている。自力でできるからこそ、俺らは俺らの子供を工場で機械的に生産する必要がない。自力でできるからこそ、俺らは科学や数学を自分自身で勉強する意味を持つ。

たとえ俺が上記をフィリピン人や日本人に提示するとしても、彼らは上記を真剣に思考できないだろう。なぜなら、彼らは人間の言葉を理解できない。彼らは白人の家畜であるのだから、、、。

明治維新と白人コンプ|世界の教祖|note
 ビゴーの言わんとするところは、おおよそ次のようなことだったのではないでしょうか。すなわち―鹿鳴館的日本人は、人間以前の猿が人間の真似をして、これ見よがしに見せつけ、威張っているようなものだ。鹿鳴館はちょっと見には西欧文明に似ており、あたかも西欧文明であるかのようであるが、本質的なことは何も理解しておらず、また理解し...
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