この宗教では、俺らは言語を世界を認識するための二次的な対象(補助的な対象)と認識する。西洋人は言語を彼らの肉体へのプログラム(動作命令)と定義する。言い換えると、西洋人は彼らの言語を機械に対するプログラムと同様のものとして定義する。
1:補助言語認識と媒介言語認識
言い換えると、俺らは言語を動作命令や媒介でなく、俺らの認識の「補助」や「道具」として扱う。主役は「俺らの認識」であり、言語でない。
補助言語認識
例えば、この認識では、俺らは肉体の運動→言語(プログラム)→肉体の運動と言語を認識しない。俺らは現実→自己の認識→肉体の運動→現実→自己の認識→肉体の運動と言語を認識する。
補助言語認識では、媒介としての言語が肉体の運動の間に存在しない。だから、俺らは相手によって肉体の運動を奪われない。
それに対して、媒介言語認識では、俺らの肉体の運動は相手によって奪われる可能性が存在する。なぜなら、相手もまた俺らと同じ言語を使用する。だから、相手の言語が俺らの肉体の間に入り込む余地が存在する。
そのとき、俺らは相手の言語の奴隷になる可能性が存在する。つまり、自己の肉体の運動→相手の言語(プログラム)→自己の肉体の運動となる。この時、自己の肉体は相手の言語の奴隷になっている。俺らはこれを回避する。
媒介言語認識
媒介言語認識では、俺らは肉体の運動→言語(プログラム)→肉体の運動と言語を認識する。実際、機械と動作命令の関係はこのようである。類似した例では、商品→お金→商品、肉体→精子→肉体、親→教育(人為遺伝)→子供、製造→情報(広告)→製造、脳→手→脳が存在する。
2:肉体の動かし方
媒介言語認識では、一つの問題が存在する。その問題とは、俺らは俺らの肉体を言語で強制的に動かせないことである。
媒介言語認識では、言語は肉体の運動の媒介である。だから、俺らは俺らの肉体を言語という動作命令で強制的に運動させることができる。
実際、東洋人の言語認識は、媒介言語認識でない。だから、彼らは彼らの肉体を彼らの言語で強制的に操縦することを苦手とする。彼らは言語による脳の論理的な操縦を苦手とする。
幾何学化
俺らが立方体を頭の中に思い浮かべて、俺らはその魚拓(image)を俺らの意志で強制的に動かすことができる。俺らはこの感覚を俺らの脳の人工的な運動(行為)へと応用する。その時、俺らは媒介なしに、俺らの脳を強制的に操縦することができる。
3:陰陽
俺らは補助言語認識は動物(蟲)に対応すると認識、信仰する。俺らは媒介言語認識を物質(機械)に対応すると認識、信仰する。俺らは物質を病と認識しないので、俺らは媒介言語認識も病と認識しない。
この宗教の世界観では、俺らは分岐によって生じてきた。俺らは機械の世界から分岐した。機械の世界では、俺らは媒介言語認識のように動く。
しかし、俺らはさらに分岐した。その結果、俺らは認識を獲得して、プログラムのような言語なしに、俺らは俺らの脳を自由に動かすことができるようになった。この宗教の目的は分岐であるので、俺らは補助言語認識をより優先させる。つまり、陽と認識する。