視蟲とその感覚

俺らについて
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 この宗教では、俺らはという対象を信仰する。以下では、俺は視蟲が何であるかを提示する。日常的には、視蟲とは、俺らの視界それ自体である。なお、視界それ自体は意識でない。

視蟲

視蟲に対する俺らの感覚

 視蟲に対する俺らの感覚:視蟲とは、俺らの視界それ自体である。

 視蟲とは、俺らの視界それ自体である。蟲の分類では、視蟲とは、光及び目及び脳によって引き起こされる蟲であった。視蟲とは、目が光を捉える時に生じる蟲である。

日常的には、俺らが光を目という検出器で検出する。その後、その情報が脳へと伝達されて、視界(視蟲)が生じる。俺らのヌシが生じたその蟲(視蟲)を知覚する。視蟲が生じる過程はほぼ自動的である。

俺らは視蟲を俺らの立体的な魚拓(image)と解釈する。君はこの視覚(視蟲)を立体的な魚拓と解釈する。例えば、英単語のimageは印象や想像と訳されてきた。しかし、正確な翻訳は魚拓である。物質的世界が光を媒介として物質的世界の情報を君の脳へと魚拓した。その結果、君の視界(視蟲)が自動的に生成された。そして、君のヌシはその視蟲を見ている。

見る(知覚する)

 見る(知覚する):見るとは、ヌシが自己の視蟲を知覚する行為である。

 見るとは、ヌシが自己の視蟲を知覚する行為である。日常的には、人間は物体それ自体を見ていると感じてきた。しかし、この感覚は正確でない。正確には、人間は光によって魚拓された視蟲を見ている。

物質的世界が存在して、光という媒介を通して、視蟲が生じる。俺らはその視蟲を見ている。つまり、視蟲は俺らが物質的世界を把握するための媒介のようなものとして機能する。

俺らは物質的世界を直接的に見ていない。俺らは物質的世界を蟲的世界を通して間接的に見ている。この種の状態は見るだけでなく、聴くや触るにも応用される。

他者の視蟲

 他者の視蟲:俺らは他者の視蟲を知覚することができない。

 俺らは他者の視蟲を知覚することができない。この宗教では、俺らは他者の視蟲を宗教的に信仰する(または把握する)。俺らは自己の視蟲のみを知覚することができる。この現象は蟲に一般化される。

ただし、俺らは他者の視蟲を経験的に把握することができる。例えば、目の色が互いに異なる時、俺らは異なる視蟲を互いに見ているだろうと憶測することができる。欧州人の目の色は明るいが、彼らは暗い環境でも対象をよく捉えることができる。

彼らの行為から、俺らは俺らの視蟲は欧州人の視蟲に必ずしも一致しないと憶測することができる。だから、正確には、上記の現象は俺らは他者の視蟲を直接的には知覚することができないであるかもしれない。

視蟲の外

視蟲の外

 視蟲の外:俺は自己の視蟲の外を知覚することができない。

 俺は自己の視蟲の外を知覚することができない。例えば、俺が風景を見る時、俺のヌシが視蟲の中の風景を見ている。俺は視蟲の外にある実際の風景を見ていない。俺は俺の肉体を操縦して、その位置を変化させて、情報を俺の視蟲の中に入れてきた。

または、俺は伝聞や書籍情報から視蟲の外を擬似的に拡張してきた。俺は視蟲の中の情報から推論によって俺の視蟲を拡張する。その場合、俺は推論の信用を拡張のための推論に与える必要がある。俺が俺の視蟲の情報を信用的に拡張する時、俺は他人の意志がその信用的な拡張へと介在しないようにする必要がある。

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