この信仰では、君は蟲を認識する。しかし、君は蟲とは何であるかと疑問に思うかもしれない。だから、俺は蟲のわかりやすい印象を以下で提示しよう。
1:視蟲は魚拓〜立体的な魚拓〜
君が君の視界を蟲として把握する時、君は君の視蟲を魚拓に対応づける。光が君の目に入り、網膜を刺激する。すると、その情報が君の脳に伝達されて、君の視覚(視蟲)が生成される、または機械的に製造される。
君はこの視覚(視蟲)を立体的な魚拓と解釈する。例えば、英単語のimageは印象や想像と訳されてきた。しかし、正確な翻訳は魚拓である。
物質的世界が光を媒介として物質的世界の情報を君の脳へと魚拓した。その結果、君の視界(視蟲)が自動的に生成された。そして、君のヌシはその視蟲を ‘ 見ている ‘ 。
2:見るとは何であるか?
日常的には、人間は物体それ自体を見ていると感じてきた。しかし、この感覚は正確でない。正確には、人間は光によって魚拓された視蟲を見ている。
物質的世界が存在して、光という媒介を通して、視蟲が生じる。俺らはその視蟲を見ている。つまり、視蟲は俺らが物質的世界を把握するための媒介のようなものとして機能する。
俺らは物質的世界を直接的に見ていない。俺らは物質的世界を蟲的世界を通して間接的に見ている。この種の状態は見るだけでなく、聴くや触るにも応用される。
3:魚拓する
日常的には、上記は印象づけるや押し付けられると解釈される。ホモ・サピエンスの一部は世界と視界や視界とヌシを把握できない。だから、彼らは彼ら自身の各視界が物質的世界によって魚拓されていると認識できない。
彼らは彼らの世界をすでに存在するものであると誤認してきた。君は君の視蟲を物質的世界によって連続的に魚拓され続けてきた蟲として認識する。これは感覚的な表現であるが、非常に重要である。
ホモ・サピエンスはこの魚拓される感覚(魚拓感?)をうまく掴めないように見える。なぜなら、彼らは彼らの視界を魚拓されているものでなく、彼ら自身と誤認識する。または、彼らは彼ら自身の視界を世界それ自体や彼ら自身それ自体と感じてしまう(未分離状態)。