我思う、ゆえに我あり〜ルネ・デカルトと方法序説〜

俺らについて
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全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum。カール・マルクスの言葉)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。コギト命題といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/我思う、ゆえに我あり

 この宗教では、創造主は彼の運転手の復活を信仰する。もし彼がそれを信仰するならば、彼は運転手が実際に存在することを証明する必要がある。なぜなら、もし運転手が存在しないならば、復活させる対象もまた存在しない。そこで、彼は運転手の実際の存在について以下のように思考する。

1.0 思考する

1.1(俺系統の思考規範) もし彼が思考するならば、彼の脳は存在する。

正確には、もし運転手が思考するならば、彼の脳は存在する。この脳は物質である。この宗教では、彼は思考するを次のように思考する。運転手が存在して、その運転手が脳をその意識を通じて、非自動的に運動させる。つまり、彼は思考するを次のように定義する。

1.2(俺系統の認識) 思考するは行為である、かつ運転手が彼の脳を非自動的に運動させる。

例えば、機械の思考を考えてみる。この思考には、運転手も意識も存在しない。だから、その思考は自動的である。彼はこの機械的な思考と上記の思考を区別する。彼は機械的な思考を処理すると便宜的に呼ぶ。処理するは運動である、脳やそれに順次する対象が自動的に運動する。

1.3(俺系統の思考規範) 脳やそれに順次する対象が処理する、かつ運転手が存在しない。

もし脳やそれに順次する対象が処理するならば、運転手が存在する。彼はこれを実際的でないと認識する(認識1.21)。実際、たとえある計算機が自動的に運動するとしても、意識はそこには宿らない。

ここで、彼は上記の「我思う、ゆえに我あり」を考える。もし我が脳やそれに順次する対象であるならば、運転手は存在する。これは間違いである。そのため、我が脳やそれに順次する対象である、かつ運転手が存在しないが成り立つ。

1.4(俺系統の思考規範) もし運転手が思考するならば、彼の意識は存在する。

上記は実際であるのかは不明である。けれども、日常的には、もし運転手が思考するならば、彼の意識は存在する。ただ、意識それ自体が思考や処理、または別の運動の主体になるのかは現時点では不明である。上記と同様に、我が意識である、かつ運転手が存在しないが成り立つ。

1.5(俺系統の思考規範) もしある運転手が自己の運転手を把握するならば、その運転手は自己の脳を介して把握する。

より正確には、もしある運転手が自己の運転手を把握するならば、その運転手は自己の脳及び意識を介して把握する。言い換えると、ある運転手が自己の運転手を直接的に把握することはない。その運転手は自己の脳を必要な対象(物体)として使用して、自己の運転手を把握する。

一般的に、動詞は物質に対する物質の作用である。しかし、運転手が自己の運転手を把握するとき、運転手という非物質は自己の運転手という非物質を自己の脳という物質を必要な道具または手段として使用して、把握する。この時、運転手は自己の運転手を脳を持って把握する。ただし、この時、もし彼が運転手それ自体が運動ないと仮定すると、運転手が自己の運転手を把握するという運動をしているので、この仮定はおかしい。また、脳という物質が運転手を捉えるのもおかしいので、その運動の主体は脳でない。だから、運転手も脳の運動に連動して特殊に運動するのかもしれない。

電飛

運転手の分割性

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