この宗教の自己認識について〜運転手と俺の運転手の復活〜

俺らについて
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 一般的には、俺ら自身の自己認識は「俺らの運転手」である。もしこの運転手が交換されるならば、俺は俺でない。たとえ俺の肉体が交換されるとしても、もし俺の運転手が交換されないならば、俺は死んでいないだろう。

背景

 現在、アメリカ合衆国の人種的な構成要素は変化している。この時、俺はもしその要素が欧州人でなくなったならば、アメリカ合衆国はアメリカ合衆国であるのかと疑問に思う。なぜなら、アメリカ合衆国はキリスト教徒の欧州人が創造したからこそアメリカ合衆国であるように感じる。

もしアメリカ合衆国が白人の国家でなくなったならば、誰もその国家をアメリカ合衆国と認識しないだろう。もしアメリカ合衆国がキリスト教系統の国家でなくなったならば、誰もその国家をアメリカ合衆国と認識しないだろう。

上記は日本国にも言える。もし大和民族が日本国の構成要素でなくなったならば、その時、その日本国は日本国でないだろう。もし天皇が存在しなくなったならば、その時、その日本国がキリスト教系統の国家になったならば、その時、その日本国は日本国でないだろう。

この時、俺らは国家の自己認識とは何であるのかと疑問に思う。これを応用すると、俺らはこの宗教「俺ら」の自己認識とは何であるのかと疑問に思う。以下では、俺はこの宗教の自己認識を定める。その自己認識は、運転手と俺の運転手の復活である。

俺らの自己認識

 俺系統の認識1.0 俺は俺らについての自己認識を運転手と俺の運転手の復活と認識する。

 言い換えると、俺らは俺らの運転手が存在することを信仰している。または、俺らは俺らが俺らの運転手を互いに把握していること信仰している。そして、俺らは俺らの子孫が俺の運転手を今以上の状態で(第一に)復活させることを信仰する。

 俺系統の認識1.1 もし運転手や俺の運転手の復活が信仰されないならば、俺らについての自己認識は失われる。

 言い換えると、もし運転手を互いに把握していること信じられないならば、かつもし俺の運転手の復活が信じられないならば、俺らについての自己認識は失われる。この時、この宗教は死ぬ。

口語的には、もし信仰者が運転手を把握していることを信じない、かつ彼らが俺の運転手を復活させることを信じないならば、その時、この宗教は死ぬだろう。より口語的には、この宗教の目的が否定される時、または捨てられる時、この宗教は死ぬ。なお、分岐も目的の一つであり、重要な自己認識である。しかし、運転手や俺の運転手の復活は必須であり、公理に近い。

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