神道(しんとう、しんどう[4])は、日本の宗教。惟神道(かんながらのみち)ともいう。教典や具体的な教えはなく、開祖もいない。神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的・祖霊崇拝的な民族宗教である[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/神道
Shinto,[a] also known as kami-no-michi,[b] is a religion which originated in Japan. Classified as an East Asian religion by scholars of religion, its practitioners often regard it as Japan’s indigenous religion and as a nature religion.
https://en.wikipedia.org/wiki/Shinto
上記のwikipediaでは、神道は日本列島の上の宗教になっている。言い換えると、神道は大和民族の宗教である。しかし、俺は神道は宗教でないと認識する。
神道は道教やゲルマン神話、モンゴル人の神話や朝鮮人の檀君神話に近いように感じる。一方、宗教とは儒教や仏教、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教、そしてヒンドゥー教である。中国は儒教と道教と仏教であり、日本国は儒教と仏教と神道である。
以下では、俺は神道がなぜ宗教でないかを提示する。さらに、俺は宗教とは何であるかを提示する。
1章 神道
俺の審判:神道は宗教でなく、大和民族の民族信仰である。
神道は宗教でなく、民族信仰に近い。例えば、モンゴル民族の天ゲル崇拝や漢民族の道教、朝鮮民ぞうの檀君神話に近いように見える。西洋では、ゲルマン神話やケルト神話が民族信仰である。
これらの民族信仰の特徴は善悪の欠如や契約概念の欠如である。実際、たとえ俺らが神道を学ぶとしても、俺らは善悪やその正しさ、あるいはお金に対する考えや刑罰、約束の概念を獲得することができない。当然、俺らは死生観や性規範を神道から学ぶことができない。俺らは自己を神道から感じるのみである。
一方、俺らは儒教や仏教から善悪やその善悪の正しさを学ぶことができる。例えば、儒教では、礼な行為が善であり、その善は孔子による礼によって正当化される。仏教では、性欲はあまり肯定されないように思えるが、これは宗教が与える性規範の一種である。神道にはこの種の宗教的な機能は存在しない。
2章 宗教とは?
俺の認識:もしある対象が宗教であるならば、その対象は社会システムを形成する能力を持つ必要がある。
社会システムとは、人間による一種の運動競技である。運動競技には、競技場としての境界と選手、そしてルールが必要である。ルールが存在するためには、行為に対する善悪が必要である。さらに、その善悪を肯定する正しさが必要である。
信仰と宗教の違いとは、社会システムの形成能力の有無である。信仰には、社会システムの形成能力が必要とされていない。それに対して、宗教には、社会システムの形成能力が必要とされている。宗教は善悪や刑罰、死生観や性規範、契約や富の規範を人間に与え、人間に人間社会や文明の形成を促す能力を持っている。
実際、神道には、社会システムの形成能力は存在しない。一方、儒教や仏教には、社会システムの形成能力が存在する。儒教や仏教は文明を形成する能力を持つが、神道のような信仰や科学や数学は文明それ自体を形成する能力を持っていない。
3章 東洋文明における国家と宗教
俺の認識:東洋文明における宗教は民族信仰と宗教(儒教)と補助宗教(仏教)の三層からなっている。
大和民族は神道と儒教と仏教である。神道が民族信仰であり、宗教が儒教であり、補助宗教が仏教である。神道が大和民族の自己を大和民族に与えているように見える。社会形成は儒教と補助として仏教によって与えられている。
漢民族は道教と儒教と仏教である。俺は道教と儒教の違いをうまく認識できない。けれども、伏キや女媧は儒教でなく道教によって与えられているように見える。道教は神道と同様に漢民族の民族的な自己を与える民族信仰である(ように見える)。
朝鮮民族は檀君?と儒教と仏教である。モンゴル民族は天グリと仏教である(俺は彼らは儒教でないように見える)。檀君?神話が朝鮮民族に民族的な自己を与えている。ただし、朝鮮民族はキリスト教による支配を受けていて、檀君と儒教と仏教とキリスト教という意味不明な状態になっている。
モンゴル民族には自己の中心的な宗教が存在しないように思える。モンゴル民族はゲルマン民族と同様に人間社会を形成するための強い宗教を持っていない。彼らは遺伝的な優秀さで乗り越えてきた。