橋本琴絵とネアンデルタール的なもの

大和民族
https://twitter.com/HashimotoKotoe/photo
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 橋本琴絵は謎のネアンデルタール理論を電網世界で投稿している。この「ネアンデルタール的なもの」は別にネアンデルタールでなくてもよく、「鉄オタ的なもの」や「アスペ的なもの」や「ホモ・サピエンス的でないもの」でも良い。おそらく、橋本琴絵は種族の違いを強調するために、ネアンデルタールという単語を使用している。

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ネアンデルタール的なものとは?

 俺の認識:ネアンデルタール的なものとは、ホモ・サピエンス的でない(分類上)ホモ・サピエンスである。

 ネアンデルタール的なものとは、ホモ・サピエンス的でない(分類上)ホモ・サピエンスである。たとえ俺らの形や色が似ているとしても、ホモ・サピエンスと呼ばれる動物には、ホモ・サピエンス的でないものが潜んでいる。当然、大和民族と呼ばれるホモ・サピエンスにも、ネアンデルタール的なものが潜んでいる。

類似した感覚〜ホモ・サピエンス編〜

同じホモ・サピエンスか

 俺らがネアンデルタール的なものを感覚的に把握したいとき、俺らはコーカサス人種とモンゴロイド人種とネグロイド人種、その他のホモ・サピエンスが本当に同じホモ・サピエンスであるかを想像すると良い。一般的に、彼らは互いに混血して、かつ生殖能力を “一時的に “もつ子孫を作ることができる。この混血と生殖能力を持つ子孫が種の同質性、つまり同じ種を定義?していると考えられている。

けれども、俺らがその定義でなく、自己の “認識(cognition)” を考慮するとき、俺らはコーカサス人種とモンゴロイド人種とネグロイド人種は本当に同じホモ・サピエンスであるのかという疑問を覚えるのだろう。実際、コーカサス人種とモンゴロイド人種とネグロイド人種は(奴隷のような従属関係なしに)同じ群れを形成できてこなかった。だから、アメリカでも人種ごとに分かれて暮らしている。そして、アメリカ大陸における白人と黒人は人種的な不適合を引き起こしていて、アメリカ合衆国自体が分裂しそうである。

混血と生殖能力を持つ子孫による種の同一性の定義は、”個体基準” の定義であり、”群れ基準” の定義でない。たとえある個体同士が交配して、子孫を残すことができるとしても、もし子孫同士がまともな群れを形成できないならば、その子孫は生存競争に敗北したり、群れを形成できなくて自滅するだろう。そして、たとえコーカサス人種とモンゴロイド人種とネグロイド人種が同じホモ・サピエンスであると定義されるとしても、同じ群れで一緒に生きていけないならば、そのとき、俺らは「俺らは同じ種でないでないか」と疑問に思うだろう。

同じホモ・サピエンスかその2

 もしコーカサス人種とモンゴロイド人種とネグロイド人種が同じホモ・サピエンスであることを証明したいならば、俺らはコーカサス人種とモンゴロイド人種とネグロイド人種が同じ群れや同じ社会で生き続けることができることを証明する必要がある。ひどい場合には、俺らは互いに会話すらできないだろう。俺らがホモ・サピエンスという動物であることを考慮するとき、もしある動物の集まりが同じ群れを形成できないならば、何らかの種族に関する違いが存在するのでないかと感じるのは自然である。

例えば、3種類のクマが存在して、その色も形も知能もそれぞれ異なっている。そして、彼らは同じ群れを形成できていない。彼らは別々の場所に固まって住んでいる。このとき、たとえ3種類のクマが互いに交配できて、生殖能力を持つ子孫を産み落とすことができるとしても、俺らはその3種類のクマを同じクマとみなさないだろう。

白人は人間を特別なものとして考える。または、白人は自己をdead or live のように自分は人間か動物かのと考える。彼らが自己を動物と定義するとき、彼らは自己の人間性を排除する。彼らが自己を人間と定義するとき、彼らは自己の動物性を排除する。もし俺らが自己をホモ・サピエンスという動物と認識するとき、コーカサス人種とモンゴロイド人種とネグロイド人種は別の種として認識されるだろう。

カポイド

 橋本琴絵も上記のTamejirouもまたコーカサス人種とモンゴロイド人種とネグロイド人種が同じホモ・サピエンスでないことの何となく気づいている。俺の印象では、彼らはかなり強い確信を持って、「俺らは同じホモ・サピエンスでない」と考えているように見える。

上記の男性(職業はおそらく医者)もまたカポイドを同じホモ・サピエンスでないと感じている。言い換えると、上記の男性(職業はおそらく医者)も “ネアンデルタール的なもの” をカポイドの中に見出しているように見える。橋本琴絵が主張する “ネアンデルタール的なもの” は非常にふざけた単語である。けれども、俺ら自身もまた”ネアンデルタール的なもの” という感覚を抱いたことがあるだろう。

類似した感覚〜長寿と短命編〜

短命

 俺らがネアンデルタール的なものを知りたいとき、俺らは長寿族と短命族を想像することができる。左の呟きを見るとわかるように、俺らがホモ・サピエンスを観察するとき、俺らは長寿と短命のホモ・サピエンスが存在することに気づく。個人的には、俺らはネアンデルタール的なものをこの状態にも感じる。

上記の男性は橋本琴絵と同じようなことを言っている。つまり、ホモ・サピエンスの群れには、異なる種の個体が混じって、生活していることである。一見すると、短命のホモ・サピエンスは単なる病気で死んだように思える。

けれども、これは解釈(認識)の違いでもある。短命の種族だから病気で死んだのか、同じ種族であるけれども、たまたま病気で死んだのか。俺らが短命で死んだ対象を単なる病気と認識するのか、または短命の種族であったと認識するのかには、解釈(認識)の余地が存在する。

病気

当然、科学的には、遺伝子の発現の結果によって、彼らは短命で死んだのだろう。しかし、もし彼らの短命が決定論のように生得的に運命付けられていたならば、(統計的な考えを除去するとしても)、俺は短命のホモ・サピエンスは種族が根本的に異なるように思える。

俺らは短命のホモ・サピエンスにどこか確率的な現象や偶然や環境、または自由意志を見いだす。だから、彼らは短命のホモ・サピエンスを同じ種族、つまり同じホモ・サピエンスと認識することができる。彼らは確率的な遺伝子の発現や環境の劣悪さでたまたま短命で死んでしまった。もし遺伝子が発現しなかったならば、もし環境がよければ、もしあの選択を実行しなければ、彼は長寿として寿命を終えただろう。

または、俺らは短命族を治療可能と認識するので、俺らは同じホモ・サピエンスと認識する。俺らは肌の色や目の大きさを治療することはできない。もし俺らが黄色い肌や顔の形を遺伝的に治療するならば、そのとき、種族それ自体が少し人工的に変化するように感じる。

寿命とホモ・サピエンス

俺らが短命を生得的な病気と認識する。さらに、俺らはその病気を種族の違いと認識する。病気も種族も科学的な事実や物質的な知覚よりも、人間の認識に近い。

このとき、俺らはホモ・サピエンスには、短命の種族と長寿の種族が入り混じって生きているように感じる。この感覚はホモ・サピエンスの群れの中に、ネアンデルタール的なものが入り混じっている感覚に近い。俺は病気や種族の定義を知らない。

けれども、俺らがホモ・サピエンスに対する認識を否定しないとき、俺らは少し不思議な感覚を抱くこともまた感覚的な事実である。ある遺伝子発現が環境や人間の意志に無関係に非常に高い確率で発生して、その発現が治療不可能、または治療すべきでない、さらにその発現が遺伝すると考えられるとき、その遺伝子発現は種族の違い、つまりネアンデルタール的なものを俺らに認識させるように感じる。

 例えば、ネグロイド人種の肌の色は黒く、彼らの知能指数は低い。そして、この種の性質はネグロイド人種という人種(種族)に関係している。当然、肌の色や知能指数は “病気” でないが、生まれてくる子孫にも類似した遺伝子の発現が非常に高い確率で発生する。そして、その遺伝子発現はネグロイド人種の意志にほぼ無関係である。

類似した感覚

発達障害者に深入りすると本当に「ここまで心が汚い人間を見たことない…」って気持ちになるよね?誰にでもありえるような無神経さや狡さや弱さでは到底ないね 。発達障害者にとって優しさはありがたいものではなく、舐めて軽んじる相手認定するもの。

増長ずる一方のアスペに疲れ果てて見放されたらそれまでのどんな恩さえ関係なし、自分の原因は眼中にない。ずっと当たり前に優しくいてくれないなら仕返ししてやるぞと思うだけの人間。あまりに何もかもが汚くて、長所を探したくてもひとつも見つけられないままだった。

思い遣り深いみんなの太陽のような上司がアスペの仕返しで胃を壊してからは、みんな敵意全開の対応してやってやるよ。それでも最後までみんなとの仲を取り持とうと、見放しても非情にまではなりきれずアスペをかばおうとしてた上司を、アスペが自分で追い打ちかけて壊した 。

このとき心底「これは人間じゃない」「人間扱いする必要が一切ない」と確信したね。今までどれだけみんなのお情けに守られてたかもわからないで、恥ずかしい仕返しを平気でするやつに与えるお情けなんかないんだからな 。アスペは面食らった反応で小さくなってて呆れたよ 。こうならないわけないだろ、こんなことしてみんなに今までどおり受け入れてもらえると思ってたのか?どんな脳だよ 。アスペは社会の無理解で生き辛い思いをしてる?はあ? アスペなんか理解したらこんな目に合うだけじゃないか!断じて何ひとつ被害者ではないし徹底的にいじめられて当たり前の人間だよあんなのな

 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10179036820

上記はYahoo知恵袋からの引用である。質問者は発達障害者に接触した後、彼は発達障害者は同じ人間でないと感じた。発達障害者に対するこの感覚は橋本琴絵のネアンデルタール的なものに似ているように感じる。

上記の発達障害者は悪い性格を持っているのでなく、ホモ・サピエンス的でないように見える。言い換えると、彼らは生得的に病的である。この種の個体がホモ・サピエンスの群れの中に潜んでいるのは事実であるように見える。

当然、単なる病気の個体であるかもしれない。ただし、この種の変な個体が単なる病気なのか、種の根本的な違いであるのかは不明である。前者の場合は治療すれば治るかもしれない。けれども、たとえ俺らがこの種の変な個体を治療しても、治癒しないならば、それはもはや病気でなく種の違いであるように感じる。