高輪ゲートウェイ駅とカタカナ用語と日本人の言語感覚

大和民族
https://twitter.com/ottff5/status/1189555825183866882
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 戦前と戦後で日本語ががらりと変わっていますがなぜでしょうか?また、それは良いことだったんでしょうか?

 補足でも、漢字とカタカナで構成されている日本語と、今の漢字とひらがなで構成されている日本語では全く違うじゃないですか。ネットで言葉ががらりと変わったと言いますが、それでも2~30年前の本なんて違和感無く読めます。 

それが5~60年になるといきなり読めなくなります。明らかに戦前の方が美しい日本語と言えます。っ、なんていらないし、ひらがなは漢字を支える要素であるべきだったんです。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1474125534

俺が戦前の日本語?を読んだ後、戦後の日本語との違いに驚いた。その後、俺は日本人は自己の言語を認識できないと審判した。この特徴は文字を認識できない動物と同じである。

カタカナ用語の問題点は戦前の日本語の問題に関係する。要するに、日本人は言語や言語の意味を認識できない。だから、彼らは日本語をコロコロ変化させるし、カタカナ用語を使用して自分から日本語を破壊する。

言語が失われるとき、それを記述する歴史も文化も失われるが、日本人は言語のみならず歴史も文化も建築も認識できない。だから、彼らは自己の言語を重視しない。

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1:日本人は自己の言語を認識できない。

 私はフィリピンで生きています。ただの旅行者ではなく、中途半端な期限付きの派遣社員でもなく、フィリピンという国で、フィリピン人に囲まれて、日々もがきながら働いています。フィリピンという国がとても好きです。国民の多くは英語を話し(英語人口は世界第3位の国だそうです)、平均年齢が28歳と若く、人口は1億1千万人を超え、昨年も6.9%程度の経済成長率をキープしている、有望な国です。ですが、日本はこんな国になってはいけない、と日々思っております。

さて、上記の「英語化」によって引き起こされる重大な問題に話を戻しますが、実はこれ、すべてフィリピンで起こってしまった事象です。

①失われた「フィリピン人らしさ」、アイデンティティー

フィリピン人は、OFWに代表されるように、英語が話せることから世界中の英語圏で労働力として重宝されています。また歌やダンスなど、エンターテイメントの世界でも高く評価されています。(といっても、全てが米国文化のコピーですが。)良く言うと社交的で人懐っこいんでしょうけど、「フィリピン人らしさ」は完全に失われています。アイデンティティーを失ってしまったんです。

②失われた知的・文化的基盤

私はよく、同僚のフィリピン人やタクシー運転手に、タガログ語で「楕円形」「長方形」「紫色」「肝臓」をなんと言うか、という質問をしますが、答えられる人はまずいません。こんな言葉すら母語(もうすでに母語とは呼べませんね)で表現できないのですから、当然タガログ語だけで裁判もできませんし、医者という職業も成立しません。1億1千万人が米英に完全に支配される「植民地」に安住しているわけです。

④フィリピン語、フィリピン文化への自信の喪失

これは明らかですね。上記の結果、米国文化(ハリウッド映画、ドラマや音楽)や科学技術(Facebook、Instagram、Uber、Google、iPhoneなどのアップル製品等)を信奉し、自分たちの言葉、文化は恥ずべきもの、というなんとも嘆かわしい事態に陥っているわけです。

https://ameblo.jp/george-taylor/

 日本人は言語能力が低く、自己の言語を認識できない。この現象は上記のフィリピン人に似ている。東南アジアは一般的に彼らの言語を雑に扱い発達させれない。

日本人は猿と同じであるので、彼らは言語の意味を認識できない。だから、彼らは平気でカタかな用語を使用するし、彼らは日本語を捨てようとする。でも、彼らは日本人のお金に乞食しようとする。

たとえ俺が彼らの言語感覚を批判するとしても、彼らは言語を認識できないので、彼らは何も変わらない。

2:善悪の判断の欠如

 日本語における問題点の一つは日本人の善悪の判断の欠如である。日本人はカタカナ用語や言語の断絶が良いか悪いかを判断できない。だから、たとえ俺が彼らをかなかな用語の使用に関して批判するとしても、彼らの行為は変化しない。

善悪の判断の欠如はサッカーにおけるルールが存在しないことに似ている。日本人の社会には、行為の正当性に関するルールが存在しないので、どんな行為がレッドカードであるかを判断できない。

その結果、日本人はルールのない運動競技の世界を生きてきた。善悪の判断を下せないことは存在や状態や行為に関してレッドカードを出せないことである。

 上記では、戦前と戦後で日本語が劇的に変化したと指摘された。しかし、日本人の学者気取りですら(大栗博司や村山斉のような物理学者ですら)その変化が良いか悪いかを判断できてこなかった。彼らは言語における劇的な変化を知っている。

しかし、彼らはそれが良いか悪いかを判断できない。だから、俺や日本人は学者はバカでないかと勘ぐる。その理由は当然善悪の判断の欠如である。

俺は言語の劇的な変化は悪いと判断する。なぜなら、日本人は戦前の文章を読むことができない。その時、先祖の歴史が断絶してその断絶は悪い。

 さらに、言語の劇的な変化は言語の目的、それは先祖の行為や歴史の記録という目的を破壊している。目的の破壊は悪いので、言語の断絶も悪い。

言語の劇的な変化が繰り返されると木、言語の目的それ自体が破壊され続ける。だから、外部の人間は日本人は言語を認識できないと審判する。この審判は人種的な軽蔑や民族的な軽蔑につながる。俺はそれを拒絶するので、言語的な断絶に反対する。

3:社会性の欠如が原因

 日本人の言語感覚の劣等性は遺伝的なものでなく、社会性の欠如である。狩猟民族は文字やきちんとした言語を持たない。なぜなら、狩猟民族は社会を形成しないので、言語を発展させる動機を持たない。

同様に、日本人は長い間狩猟民族であり、農耕民族としての歴史を持ってこなかった。農耕民族としてのこの歴史観のなさがカタカナ用語や戦前と戦後の日本語の劇的な変化の原因である。大和民族は狩猟民族的であるので、彼らの言語感覚は劣等である。

もし君がカタカナ用語や日本語の劇的な変化を嫌うならば、君はカタカナ用語を廃止する前に、君は社会性を身に着ける。たとえ君がカタカナ用語を廃止して綺麗な日本語を強制するとしても、もし日本人が社会性を持たないままであるならば、日本人はカタカナ用語の使用や日本語の劇的な変化を繰り返すだろう。

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