高校に古典は本当に必要なのか?理系猿こと大阪大学の猿倉信彦

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 俺の最終的な審判 古典それ自体は非常に重要である。しかし、古典教育それ自体は深刻な問題を持っているので、その問題は解決されるべきである。古典それ自体は決して破棄されるべきでない。

 俺は古典(東洋古典および日本古典)は非常に重要であり、絶対に必要であると審判する。しかし、現在の古典教育には、深刻な問題が存在して、それらは改善されるべきである。また、文系の大学教員の無能さもまた改善されるべきである。

以下で、俺はなぜ古典教育が必要であるかについて述べる。さらに、俺は文系の大学教員や古典教育はどうあるべきであるかについて述べる。なお、理系猿こと大阪大学の猿倉信彦の試みはうまくいかないだろう。

理系猿(おそらく大阪大学の猿倉信彦)は彼自身が醜いモンゴロイド であることを嫌っている(残念ながら、大和民族の学者には、この種の白人崇拝者が多い。)。だから、彼は自己否定の一環として古典否定を繰り返している。彼の行為はまるで一重の日本人女性が白人男性と結婚して、二重の中央アジア的中間種を産み落として、彼女自身が大和民族であることを白人の遺伝子で消去したいようなものである。

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1:なぜ古典それ自体が重要であるか?

 以下で、俺はなぜ ‘ 古典それ自体 ‘ が重要であるかについて述べる。古典の重要性を語るとき、中国人との商業や教養が持ち出される。ここで、それらを除外した別の観点方、古典の重要性を眺めよう。ここでは、俺は古典教育の問題について語らない。

1:文明の形成と奴隷及び家畜の防止〜劣等感〜

 動物には、古典が存在しない。なぜなら、動物は彼ら自身の文字や歴史を形成できない。欧州や北米から本物の白人至上主義が台頭するとき、俺らの先祖が古典や文明を形成してきたことは俺ら自身の生命を守る上で非常に重要である。

白人の一部は文明を持たないホモ・サピエンスを人間でなく、家畜や人もどきと認識する。だから、彼らはその種のホモ・サピエンスを奴隷や家畜として扱って良いと内心感じる。実際、黒人が奴隷にされたのは、彼らが彼ら自身のまともな文明を持ってこなかったからである。

また、俺らの先祖が何も文明を形成してこなかったとき、俺らは強烈な文明的な劣等感に悩まされる。俺らがドイツ人や優生学者を見るとき、白人の文明的な劣等感を彼らから感じ取ることができる。東洋では、朝鮮人は文明的な劣等感を持っている。

 例えば、源氏物語や平家物語の意味は「文字」である。動物と人間、人間とホモ・サピエンスの違いとは文字である。俺らの先祖が文字を扱ってきたことに実際に接することの重要性とは、俺らの先祖が人間であったことを知るためである。

もし俺らの先祖が文字を扱ってこなかった動物であるならば、俺らは猿の子孫であるか?その答えはいいえである。源氏物語や平家物語を商業やGDPの名の下で廃止することは、俺らの先祖が人間であった事実を消去することに等しい。

Why Have Asians Not Dominated? - American Renaissance
High intelligence may not be enough.

2:歴史を把握・認識するため〜洗脳防止〜

 古典の重要性は歴史を大局的に把握・認識することに関係する。そのとき、俺らは現在の価値観が全てでないと感じて、現在を相対的に把握できるようになる。俺らは古典に実際に接して、現在の価値観による洗脳から脱することができる。

例えば、明治維新という薩長のクーデターを考えよう。もし俺らが古典をないがしろにするならば、俺らは俺らの歴史を明治維新から人工的に構成しなければいけない。そのとき、明治維新の後の民主制度や憲法的な価値観がある種の公理として機能してしまう。

しかし、民主制度は単なる政治制度の一つである。もし俺らが古典を知らないならば、俺らは民主制度を絶対的な公理として崇拝する可能性がある。また、民主制度は白人によって押し付けられた制度であるので、俺らは民主制度に関する責任を生真面目に取る必要はない。

 たとえ俺らがイスラム教を押し付けられても、俺らはその宗教の下で宗教的な責任を負う必要がない。同様に、俺らにとって、民主制度とはシャリーア法のようなものである。だから、俺らはその責任を負わない。

3:領土問題の正当性や損害

 古典は領土問題の正当性を与える。誰がどこの領土を所有するかという問題において、しばしば古典が重要な役割を演じる。実際、中国は領土問題の正当性を古典の中に見出してきた。

もし俺らが古典を軽視するならば、俺らは俺らの領土の所有の正当性を訴えれなくなるかもしれない。その状態は悪い。

また、古典は歴史における加害と被害の関係にも関係する。例えば、古典が俺らに対する損害の事実を教えるとき、俺らは古典を持ってその賠償を請求できる。俺らの先祖が何をして何をされたかを理解することは非常に重要である。

4:悪意に対する防御

 スペイン人はアメリカモンゴロイド人種の古典や歴史を抹殺した。俺らはこの行為を防止する必要がある。古典の重要性は悪意に対する防御としても重要である。俺らが他人を洗脳するとき、俺らはその他人を彼らの家族から引きかなしたり、先祖や彼らの歴史を否定して破壊することから始める。

古典を破棄することは洗脳されることに似ている。白人に都合の良い歴史が書かれても、俺らはその狂った歴史を古典なしに否定できない。スペイン人はアメリカモンゴロイド の歴史を否定した。

なぜなら、スペイン人はアメリカモンゴロイド 人の生きた証を抹消しようとした。スペイン人はアメリカモンゴロイド 人をキリスト教にしようとした。古典を知らないならば、俺らの古典が破壊されても、俺らはそれに気づかないだろう。

5:顔(自己認識)の形成と自己の視点の形成

 古典の重要性は彼ら自身が誰であるかを知るために必要である。大和民族は遺伝的な自己認識を自動的に持つ。しかし、人間社会を形成するためには、大和民族はそれに加えて人工的な自己認識を持つ必要がある。

古典教育は自然な自己認識と人工的な自己認識という二重の自己認識に約立つ。人間は完全な動物でないので、人間は自然な顔に加えて、人工的な顔を必要とする。もし人間が人工的な顔を形成できないならば、彼らは人工的な自己認識の崩壊に接して、精神的に不安定になるだろう。

また、古典は自己の視点の形成に役に立つ。もし俺らが俺ら自身の古典を学ばないならば、俺らは俺ら自身の歴史を白人視点で語るようになるだろう。実際、日本人の一部はモンゴロイド であるのに、なぜか白人視点で物事を語っている。

 自己の視点が形成されないことは他人の歴史を測定する定規を持たないことである。俺らが他国の歴史や他人の文明を測定するとき、俺らは俺らの基準や定規を必要とする。

6:対峙能力の維持や歴史戦

 古典は人工的な自己を形成する。もし俺らが古典を捨てるならば、俺らは白人との対峙能力を喪失して、彼らに従属的な関係を強制される。もし俺らが自己を持つならば、俺らは他人とその自己を持って対峙できる。

2:古典教育のあるべき姿

 東洋古典教育は東洋小人種彼ら自身のために存在する。それは白人のためやインド人のために存在するのではない。それらは文化的かつ文明的な自己認識、つまり東洋人自身の顔を形成する。

1:自己の文化的文明的な顔(自己認識)を形成できるか?

 古典は人工的な自己認識を形成すべきである。古典は東洋小人種としての視点や大和民族としての人工的な視点を獲得すべきである。

2:きちんとした目的が設定されてるか?

 古典教育はきちんとした目的を設定すべきである。俺らがただ漢文や古文をやるとしても、それは無意味である。

3:社会性や共通認識の形成に貢献するか?

 古典の役割の一つは過去に対する共通認識を与えることである。俺らが古典を学ぶことを通して、俺らは共通した認識を形成する。その結果、秩序がある社会の形成を促す。もし俺らがなんら共通認識を持たないならば、俺らは安定した社会を形成できない。

4:先祖の意志をきちんと受け継げるか?

 古典の重要性は俺らの先祖の意志に触れることである。

5:他者との対峙に利用できるか?

 古典教育を行うとき、俺らはそれが自己を形成して、他者との対峙に使用できるかを考える。例えば、白人が日本人を含む東洋人は遅れていると侮辱するとき、平家物語を持ち出して、文字を使ってきたことの証明をきちんと提示する。一方、白人の王様は文盲が多かったことをきちんと証明する。

3:東洋文明と古典

 古典の重要性は東洋と西洋では、異なる。西洋人は行為の正当性を宗教や神の中に見いだすので、彼らは古典をあまり必要としない。それに対して、東洋人は行為の正当性を宗教や神のことばでなく、歴史の中に見出してきた。

だから、東洋人にとって、古典は失うべきものでなく、非常に重要である。東洋人にとって、古典とは行為の正当性、真理が詰まった宝物である。この宝物に接することは非常に重要である。

1:歴史を正当とする東洋

 古典は行為や状態の正当性を考えるときに、重要になる。東洋人は宗教に正当性を見ないで、古典や歴史の中に正当性をみる。もし東洋人が古典を捨てるならば、東洋人は行為や状態の正当性を失うだろう。要するに、何が正しいか、何がレッド・カードであるかを彼ら自身で判断できなくなる。

2:過去で繋がる

 東洋人は長い歴史を持ってきた。だから、俺らは米国民のように現在と未来でなく、過去で繋がることができる。俺らが過去を失うとき、俺らは宗教化する。

東洋世界における統一性は俺らが過去でつながっていることである。過去を失った人間は人間をまとめ上げる何かを失う。その結果、彼らは延々に争い続けて、不安定な秩序と安定、そして他者に対する信頼を失う。それは悪い(レッド・カード)。

東洋人は過去に対する信頼を非常に重視する。西洋人は現在と未来における信用を重視する。なぜなら、西洋人は古典と過去を失った。だから、相手を見るとき、彼らの過去の行為でなく、契約にしっかりと従うかで、相手の信用性を見ている。

3:先祖の概念

 東洋人にとって、先祖は白人の神に対応する。古典には、俺らの先祖の意志が詰まっている。もし東洋人が先祖を否定するならば、その行為は西洋人の神を侮辱する行為に等しい。西洋人や中東人が聖書を学ぶように、東洋人は古典を学ぶべきである。

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