真理を探究する丸山善宏へ〜京都大学卒と白眉と圏論〜

大和民族について
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 京都大学卒業の丸山善宏は圏論を研究する数学できる数理哲学者?である。俺の印象では、彼の数理能力は生物学者や工学者よりも高い。彼は大森荘蔵やソーカル事件の人間とは全く異なる人間であり、現時点では胡散臭い人間でない。

俺は彼のtwitterを楽しみに見ていた。現在、彼はLecturer, RSCS, The Australian National Universityに在籍しているらしい。俺は権威主義的でなくある種の純粋さを持つ彼を嫌っていなくて、むしろ好きである。

彼は世俗的でなく、昔ながらの総合的な学者っぽい。俺は職人的な数学オタクや科学オタクを非常にきらう。俺は学者を名乗るならば、歴史も科学も数学も哲学も宗教も文学も詩も商業も知っているべきであると審判する。以下で、俺は彼のtwitterや彼の発言に関して思ったことを提示する。

1 丸山にとって真理とは?

 俺の憶測 丸山は自然界を正確に表現することを ” 真理 ” と感じる。

 俺の記憶では、丸山は真理や学問という単語を使用してきた。そして、彼は真理に対する冒涜や学問における不誠実さを非常に嫌った。彼は森田真生の胡散臭さを敏感に感じ取り、彼をひどく嫌い厳しく批判した。

俺が彼が真理という単語を使用する時、俺は彼の真理に奇妙な違和感を覚えた。彼は一体全体どういう意味で真理という単語を使用してきたかである。俺の真理と丸山の真理は互いに異なる。

丸山は自然界を正確に、または厳密に表現することを学問や研究、真理としているが、俺は自然界の正確な表現を真理と認識しない。その行為は文字通り ” 自然界の正確な表現 ” である。例えると、自然界の正確な表現とは、頭の良い蚕(科学者)が現実の情報を消費して、現実を正確に出力する繭を生成する行為に似ている。

2 俺の真理

 俺にとっての真理 真理とは、自然界に存在しない対象であり、かつ正当性を持つ対象である。

 俺にとって、真理とはこの世に存在しないものであり、人間が自然界を観察しても永久にわからない。例えば、善悪は自然界には存在しない。たとえ俺らが科学や数学を観察して極めるとしても、俺らは男女平等が正しいか、男女公平が正しいか(真理)すら判断できない。

判断できないからこそ、俺らは自然界に存在しない善悪を研究して、善悪の正当性(つまり真理)を明らかにする必要があった。この行為は自然界への観察からは直接的に明らかにならない。当然、人間は自然界を研究しても、善悪を明らかにできないので、善悪を研究する必要があった。

真理は自然界には存在しない。しかし、俺らは人間社会を円滑に運営するために何が真理であるかを明らかにする必要がある。そのための道具の一つが論理である。俺にとって論理とは自己の意見を正当化するための道具である。もし真理が自然界に存在するならば、俺は論理を自己の意見を正当化するための論理を必要としないで、観察を重視する。

3 学問とは何であったか

 俺にとっての学問と科学 学問とは人間が自然界に存在しない対象を研究して真理を定める行為である。科学とは人間が自然界を観察して正確に記録する行為である。

 俺の印象では、昔の学問とは、仏教や儒教の研究であった。諸子百家や孔子は礼を研究していた。西洋では、学者はこの世界の創造主や神学や善悪を研究してきた。

この行為に対して、現在の科学者や数学者は仏教の研究や儒教の研究や神学は学問でないと感じてきた。良くて、その種の行為は資料の記録の延長線上であると感じてきた。それらは研究する価値のないものであると。

しかし、俺は科学者や数学者の本能に反対である。俺は諸子百家や孔子がやった行為こそが本当の学問(true study)であると審判する。彼らは自然界に存在しないもの、礼を研究してそれを真理とした。彼らの行為はまるで創造者のようであった。

 自然界には、善悪が存在しない。だから、俺らは何が善であり、何が悪であるかを研究する必要があった。なぜなら、俺らが人間社会を形成するとき、俺らはある程度統一された善悪を必要とする。

例えば、「異教徒を殺すことを善とする教徒」と「それを悪とする教徒」は異なる善悪を持つので、同じ社会で生活できない。この状態では、人間は人間社会を形成できないので、人間社会から導かれる文明が形成されない。

そこで、諸子百家のような人間は「異教徒を殺すことを善とする教徒」と「それを悪とする教徒」のどちらが正しいかを研究して、その真理を明らかにする必要があった。日常的には、男女平等と男女公平の論争が存在する。

 俺の印象では、自然科学は学問でなく ” 自然界の観察 ” である。悪くいうと、彼らの行為は自然界の実況中継である。俺はその種の行為を学問行為でなく観察行為と認識する。

もし学者が真理や真理の探究という単語を使用するならば、彼らは男女平等と男女公平のどちらが真理であるかを明らかにせよ。たとえ俺らが自然界を観察するとしても、男女平等と男女公平のどちらが真理であるかは永久にわからない。だから、昔の学者はそれを研究する必要があると審判して、書物を残してきた。

彼らは人間として本当に知的であった。丸山は豊富で正確な知識を持つ。しかし、俺は彼は学問の ” 意味 ” を ” 把握 ” できないように思える。

おまけ 丸山への質問

 以下で、俺は丸山が科学と数学を以っても回答できない質問を提示する。書き込み欄を開けるが、俺が回答するかは未定である。

自由は真理か?

 日本はもうほとんど芸術を失った国だ。言語芸術はラノベ化し音響芸術はポップ化し造形芸術は2次元化してしまった(アニメはこの三種を組み合わせた複合芸術)。日本の最高学府と欧州の最高学府の決定的な差はその構成員の持つ文化的素養の圧倒的な差に在りそれが文化を超えた帰結を生んでいると思う。

 何でもハイアートやハイカルチャーが偉いと言う意図はないし見てくれだけ繕ったスノビズムには吐き気がするし日本のポピュラー系サブカルチャーには固有の重要な意義があると思うがそれがメインカルチャー化している今の日本は異常(そういう異常性をポストモダンの極北とか表現する人もあるけれど)。

 白人は人間の本質を自由とした。彼らは自由でない対象を人間未満と定義した。彼は自由を善悪の公理のような対象とおいて、そこから、彼らは学問の自由や言論の自由、そして報道の自由を導いた。

しかし、俺はその定義に違和感を持っている。俺は自由の結果、日本列島の景観はメクラの福笑いみたいな状態になり、映画は死に絶え、カタカナ用語は氾濫して、ジャニーズやAKBのような幼稚な偶像が蔓延した。日本人はまともな映画も音楽も作れなくなった。

俺はこの原因は自由にあると憶測する。自由が間違いである。この問題は当然、自然科学や数学によって解決されない。なぜなら、たとえ科学者が自然界を観察するとしても、自由が善であるか悪であるかはわからない。自由の善悪を決定することこそが学問という営みである。

ジョン・ローン
ジョン・ローン

質問1 丸山はどう思うか?自由は丸山にとって真理であるか?

男女公平と男女平等のどちらが真理であるか

 俺の勝手な憶測では、男女平等の平等はキリスト教の創造主の「創造主の下では皆平等である」に由来する。キリスト教徒にとって、創造主の言葉は真理であるので、皆平等も真理である。つまり、人種も男女も平等でなければいけない。そうでない状態は悪であり、差別主義者である。

ジョン・ローン
ジョン・ローン

質問2 丸山にとって、男女平等と男女公平のどちらが真理であるか?

丸山の善悪は何であるか?

 俺は丸山は上記の質問に回答できないだろうと予想する。なぜなら、彼は彼自身の善悪を持っていない。善悪とは、サッカーのレッドカードのようなものである。

現在の丸山の状態はレッドカードを持たないサッカーの審判と同じである。たとえ俺らがある選手のハンド行為を強く訴えるとしても、丸山審判はその訴えを適切に審判できない。なぜなら、彼はハンドが悪であるというレッドカードを持っていない。

ジョン・ローン
ジョン・ローン

 質問3 丸山の善悪は何であるか?また、その正当性を与えるものは何であるか?

終わりに

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感想(0件)

 上記の本には、丸山が書いた記事が掲載されている。

ジョン・ローン
ジョン・ローン

 もし君が俺の記事を面白いと感じたならば、俺は続きを書こう。論理や言語に対する俺と丸山の価値観は非常に異なっている。俺にとって論理は自己の意見の正当化の道具の一つであり、言語は対象の管理や統治のための道具である。あるいは、論理は脳の推論運動の機械的な制御である。考えることは俺にとって脳の運動である。

書き込み欄

  1. この人工世界の創造主kato より:

    これは試験投稿である。

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