なぜ林郁夫と石川公一と中川智正と富永昌宏はオウム真理教にはまったか?

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 この時期だとオウムのサリン事件をどうしても思い出してしまう。あのとき、オウムに入れ込んだ高学歴の連中の数名は自分と同世代、いや、友人の友人くらいの関係で、実際に同じ講義に出ていたのもいた。巷では「優秀な」連中がなぜ?と言われていたが、ほんとのところ、殆どは研究室のお荷物だった。

https://matome.naver.jp/odai/2146642091486610201?page=2

 以下で、俺は ” なぜ医者がオウム真理教にはまったか ” について提示する。一般的に、日本人は対象それ自体を認識できないので、雰囲気や情緒的な何かしか提示できない。上記のような ” 研究室のおちこぼれ→オウム真理教 ” という推論は完全に間違いである。

もしこの推論が正しいならば、毎年オウム真理教にハマる学生が生じてくる。しかし、それは現実でない。人生における挫折の結果、彼らはオウムにはまったのか?

この種の考えは単なる物語的(narrative)な消費である。物語は推論でなく、わかったつもりになっているだけである。俺は自称新興宗教の教祖であるが、この立場からのべる。

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そもそも宗教とは何か?

 宗教に対する認識 宗教は一種のsystemであり、それはバラバラのホモ・サピエンスが人間社会を形成することを促す

 日本人は宗教を他人を救うものや修行して悟りを開くものと感じてきた。この感覚は神道と仏教に由来する。しかし、宗教の本質は人間の適切な管理や統治による人間社会の形成である。

一般的に、宗教は死生観と善悪を与える。加えて、それは富や性に感する規範と契約の概念、そして刑罰も与える。もし宗教が存在しないならば、人間社会は形成されない。

オタクや学者の作る組織はまともでない。なぜなら、彼らは性規範を持っていない。だから、彼らは可愛い女の子を見ると、発情期の猿のように群がりちやほやしてサークルの姫を作る。そして、組織は崩壊する。

宗教と医療と学問

 経験則 自然界には、善悪(正当性)は存在しない

 正確には、自然界には、対象の存在及び状態、そして行為に対する善悪(正当性)は存在しない。簡単にいうと、自然界には、レッドカードが存在しない。たとえ俺らが自然界の全てを明らかにするとしても、俺らは男女平等と男女公平のどちらが真理であるかを決定できない。

医療行為それ自体の正当性はこの自然界には存在しない。数理情報の製造行為それ自体の正当性はこの自然界には存在しない。宗教はこうに対する正当性を与えるので、宗教は医療や学問に常に関係してきた。

現在、科学は人間によって信用されてきた。なぜなら、人間は数理情報の製造行為それ自体に正当性を見出してきた。しかし、その行為の正当性それ自体は科学によって取り扱われず、常に疑われる余地が残されている。

 要するに、人間は数理情報の製造行為の正当性を疑う権利を持つ。彼らは数理情報の製造行為の ” 正当性 ” を信じる必要はない。なぜなら、その行為の正当性は自然界に存在しない。

もしある人間が数理情報の製造の正当性を信仰しないならば、その人間は正当性を持たない行為によって製造された科学的な情報を信仰する必要はない。

オウム真理教の性質

 オウム真理教の性質 オウム真理教は仏教系の新興宗教であった

 オウム真理教はカルト宗教と呼ばれた。しかし、この呼称は適切でない。この宗教は ” 仏教系 ” の危険な宗教であった。

オウム真理教はキリスト教系でなく仏教系であった。これはオウムの本質に関係する。もしオウム真理教がキリスト教系の宗教であったならば、サリン事件は生じなかったし、オウムには高学歴が集まらなかっただろう。

なぜ医者はオウムにはまったか?

 その理由 彼らはキリスト教の道徳観や倫理観に納得しなかったので、仏教系の宗教にそれらを求めて、あの宗教にハマった。

 自然界には、善悪が存在しない。自然界には、医療における行為に対する善悪(正当性)は存在しない。けれども、もし医者がある種の医療行為の正当性を考えないならば、医療それ自体が機能しない。

医者は医療行為の善悪(正当性)という宗教的な問題から逃れられない。日本人の医者は医療行為の善悪の問題に無関心でいられてきた。なぜなら、彼らはキリスト教の道徳や倫理観をそのまま日本国の医療へと応用してきた。

言い換えると、日本人の医者は行為の善悪を異教徒の白人に委ねてきた。日本人の大部分はキリスト教徒でない。だから、一部の日本人医学における道徳や倫理に疑問を抱いてきた。

 日本人の医者が現代医療における倫理観や道徳観に疑問を持つことは自然である。なぜなら、彼らはキリスト教徒でない。この種の人間が仏教における道徳観や価値観に流れて行った。

俺の印象によると、日本人の医者は死生観の問題に特に違和感を覚える。キリスト教では、天国や最後の審判といった死生観であるはず。仏教徒や無宗教の日本人はキリスト教徒の死生観に絶対に馴染めない。

彼らはそれを前提とした道徳観や倫理観に強烈な違和感を覚える。

臨床医としてなどの死病の患者と接するうちに、現代医学科学が乗り越えられない「死」に対して深く考えるようになる[4][5]1977年桐山靖雄の本に感化され、阿含宗の正式な信徒となり、多くの知り合いを阿含宗に勧誘していた[6]。約10年在籍したが、自身の修行の成果が出ないと悩んでいた[7]

https://ja.wikipedia.org/wiki/林郁夫_(オウム真理教)

 林は実際の医療現場に接して、死生観について考えた。俺の勝手な憶測によると、彼はキリスト教における死生観に納得がいかなかった。だから、彼は仏教系の死生観にハマった。

1987年東京大学理科三類に現役合格[1]。3年次から東京大学医学部医学科に進学したが、ヨーガに関心を持ったことがきっかけで、大学を休学し1990年オウム真理教に入信、同年8月3日に出家。

https://ja.wikipedia.org/wiki/石川公一

オウムと最初の出会いは、1986年11月にたまたま見かけた麻原の著作『超能力秘密の開発法』を読んだことである。当初は特に興味もわかず、本も途中までしか読まずに放置した。しかし医師国家試験合格から就職までの空いた期間に、ほんの興味本位で麻原のヨガ道場をのぞいたことが発端となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/中川智正

1987年3月に同校を卒業し、同年4月、東京大学理科三類に入学。だが「先が見えてしまう。死んでいくだけだ」「死を超えるにはどうしたらいいのか」と思い悩んでいた[1]。そんな中1992年6月、東京大学医学部医学科6年在学中、高校から大学を通じての友人石川公一の影響によってオウム真理教に入信する。在家信者となり、教団の道場にてヨーガを修行する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/富永昌宏

 上記の人間もまたヨーガや死生観に強い関心を持っていたように思える。もし彼らがキリスト教徒であったならば、彼らは彼らの死生観に疑問を持たなかった。彼らはオウムに入信しなかっただろう。

キリスト教的な死生観はこの現代の日本国の医療現場を支配する。彼らはこの状態に対する強烈な違和感を覚えた。その結果、彼らは仏教系のカルト宗教に入っていった。

ほとんどの日本人の医者は彼らの死生観を持たない。彼らは彼ら自身の死生観を彼ら自身で考えることができず、彼らは死生観をキリスト教の死生観に完全に委ねてきた。彼らはその状態に何ら疑問を持ってこなかった。

オウムは繰り返されるか?

俺の予想 オウム真理教のような出来事は再度繰り返されるだろう。

 その出来事は高学歴で科学や数学や医学に長けた人間が仏教系の危険な宗教にハマることである。答えは ” はい ” である。なぜなら、行為の正当性は自然界に存在しない。

だから、人間は数理情報の製造行為の正当性を常に疑い続けるだろう。人間は医療行為の正当性を常に疑い続けるだろう。真理とは宗教によってのみ与えられる。

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