なぜ日本人のエリートは馬鹿で無能か?〜東南アジアにおける植民地エリート〜

大和民族
https://ja.wikipedia.org/wiki/河野太郎
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 長い間、日本人のエリートは馬鹿であると指摘されてきた。これは日本人だけでなく、東洋人や欧州人によっても指摘されてきた。以下では、俺はなぜ日本人のエリートは馬鹿で無能であるかを提示する。

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理由〜統治の欠如〜

 理由:日本人のエリートは統治能力も統治の正当性もそもそも持っていない。

エリートとは

 エリートとは、民を統治する正当性を持った人間である。しかし、日本人のエリートは民を統治する正当性を持っていない。だから、彼らはエリートとしては馬鹿で無能に見える。

ひどい場合には、彼らは統治が何であるかを認識していない。未開と文明の違いとは統治の有無である。大和民族のエリートは無能であるので、彼らは統治が何であるかを認識していない。

統治者のとしての規範の欠如

 大和民族のエリートは統治者としてのあるべき規範をそもそも持っていない。なぜなら、彼らは統治が何であるかを認識していない。彼らは統治者としての規範すら持っていない。

にも関わらず、彼らは統治に関係しようとする。その結果、彼らは馬鹿で無能に見える。例えば、儒教における王道政治が存在する。

その考えは、大陸東洋人が統治者があるべき姿とは何であるかを思考してきた結果である。大陸東洋人の統治者はその統治者としてあるべき姿に沿って(表面的には)振る舞おうとする。その結果、彼らはより文明的であるように見える。

馬鹿すら統治できない

 大和民族の統治者は統治者としてのあるべき規範を持っていないので、彼らは部下に?やってもらおうとする。そして、彼らはなぜか馬鹿を見下すが、その馬鹿すらまともに統治することができない。「やってもらう」や「馬鹿を見下す」は統治者としてのあるべき姿でない。

統治者のあるべき姿は部下や馬鹿を統治することである。しかし、大和民族のエリートは馬鹿すら統治できないので、彼らは無能に見える。彼らの脳は馬鹿を馬鹿にして見下すことは統治者としてふさわしい振る舞いでないと審判できない。

馬鹿は人間よりも動物に近い。だから、統治者はその馬鹿な動物を容易に統治できて当然であるはずである。しかし、大和民族のエリートは「馬鹿が僕のいうことを聞いてくれない」と愚痴や泣き言を言って、馬鹿を見下す。ひどい場合には、彼らはその馬鹿に統治を含めて、なんでもかんでもやってもらおうとする。その行為は動物に人間を統治させるような行為である。

日本人のエリートの勘違い

 大和民族はまともな審判能力や認識能力、そして判断能力を持っていない。その結果、彼らは勘違いを繰り返す。彼らの勘違いは、「日本人女性は白人男性からもテる」に近い。実際は性欲の処理機として弄ばれているだけである。

頑張ったご褒美

 大和民族のエリートはエリートであることをご褒美か何かと勘違いしている。彼らは勉強を頑張って、エリートになった。だから、彼らは報われて当然であると感じている。

この種の勘違いは医者や学者に顕著である。彼らは受験勉強を頑張った、または研究を頑張って博士号を取得した。だから、彼らはご褒美として、社会的な地位や高給や先生呼びを獲得できると感じている。

えらい

 大和民族のエリートは彼ら自身がエリートであるから、彼らは平民よりもえらいと感じている。しかし、エリートがえらいのは、彼らが統治者であるからである。大和民族のエリートは統治が何であるのかを認識できないので、彼らはエリートをマウンティングの道具に使用してしまう。

大和民族のエリートは彼ら自身が他人よりも秀でているので、彼らはエリートであると感じているように思える。しかし、たとえある運動選手がどんなに他の選手よりも秀でているとしても、その選手はエリートでない。同様に、ある日本人が勉強(学問)の分野でどんなに秀でているとしても、その日本人はエリートでない。

やってもらう

 大和民族のエリートは統治を部下や馬鹿にやってもらおうとする。なぜなら、彼らは統治それ自体が何であるかを認識していない。彼らは「自分は頑張って勉強してエリートになった。だから、おだてられて当然」と感じているように見える。

そのほか

対峙能力の欠如

 大和民族のエリートは異人種や異民族との対峙能力を持っていない。大和民族のエリートは大和民族に依存して、平民を見下す。けれども、彼らが異人種や異民族と対峙しそうになる時、彼らは見下している日本人に対峙してもらおうとする。

自己の欠如

 大和民族のエリートは自己の何を形成する能力を持っていない。自己の言語や文化や都市建築、そして自己の政治制度や国家すら彼ら自身で形成できない。彼らは白人によって与えられないと何もできない。