医師の小野昌弘(masahirono)とコロナとスイスチーズモデル〜イギリスのインペリアルカレッジロンドンで免疫学者〜

大和民族
https://unsplash.com/photos/Jrq8ONPnrIU
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 小野昌弘が木下喬弘(救急医のTaka)などと問題になっている。彼らはコロナに関する政策やスイスチーズモデルに関する著作権について食い違っている。以下では、俺は異なる観点から見た大和民族の医者の問題を提示する。

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小野昌弘

問題点

 俺の認識 小野昌弘は自己の宗教を伝達せずに、ワクチン接種の善悪や社会における公平や平等について述べている。

 小野昌弘は自己の宗教を明らかにしないので、誰も小野昌弘がどの宗教系統の善悪を持っているのかを知ることができない。小野昌弘は自己の発言や自己の行為に責任を負いたくないので、小野昌弘は彼自身の宗教を明らかにしないように思える。俺にとって、この種の状態は非常に卑怯であり、この卑怯は礼に反して、非常に悪い(レッドカード)。

例えば、小野昌弘がワクチン接種について語るとき、小野昌弘はワクチン接種が善であるのか、悪であるのかを判断する必要がある。そのとき、小野昌弘は接種行為の善悪をどの系統の宗教が与える善悪(レッドカード)で判断するのかを表現する必要がある。小野昌弘はサッカー系統の善悪で接種行為の善悪を明らかにするのかを表現する。

 医師であることや職域接種の対象であったという理由だけで、ワクチン接種優先だった人たちが、必死にその不公平なやり方を正当化するのは、見苦しく思う 社会の中でどのようにして公平に、医学的弱者から順番に先に助けられるかという発想ができない医師に、医師としての存在意義はあるのか疑問に思う

https://twitter.com/masahirono/status/1425121476378710017

上記では、小野昌弘は公平という単語を使用した。けれども、この単語は宗教的な単語でもある。例えば、キリスト教では、平等が重視されている。もし俺らが社会における平等や公平について語るならば、俺らは自己の宗教を明らかにして、どの宗教由来の平等や公平について語っているのかも明らかにする必要がある。

問題点

 俺の認識 小野昌弘は西側白人の考えを代弁しているだけであり、小野昌弘は彼自身の視点や考え(認識や判断)を何も表現していない。

 下記の文章は非常に典型的な大和民族の文章である。小野昌弘は何かを言っているが、白人視点を引用しているだけである。見てみよう。

 私の理解ではスイスチーズモデルはウイルス学者Ian Mackay博士がCC-BY4.0ライセンスで公開したもの。CC-BY4.0は強力な公的ライセンスで、使用の際には引用を明確にする、改変した場合はその旨を明記、二次作成したものを他人が使うとき追加的な制約をしてはいけないという規定です

https://twitter.com/masahirono/status/1423878193472184321

上記では、小野昌弘は「〜という規定です」と述べた。しかし、東洋文明(卓球)と西洋文明(サッカー)は互いに異なる文明である。だから、小野昌弘はその規定が東洋文明において善であるのかを正当化する必要がある。大和民族は延々と白人の規定について報告するが、彼らはその規定の善悪を正当化しないので、何を言いたいのかわからない。

 引用で著者への敬意を示すことは、研究の世界ではごく普通の常識で、この常識を形にしたライセンスです。剽窃に対する態度の厳しさは欧米で論文指導を受けた学生は身に染みてわかっていることと思います。研究の世界でのCC-BY4.0の理解にはオープンアクセスの理念の理解も必要。

https://twitter.com/masahirono/status/1424399980786118656

上記も同様であり、小野昌弘は「研究の世界ではごく普通の常識で」と述べて何かを説明している。さらに、小野昌弘は「剽窃に対する態度の厳しさは欧米で論文指導を受けた学生は身に染みてわかっていることと思います」と脅しのようなことを呟いた。

けれども、俺はなぜ小野昌弘がその常識や態度の厳しさを善と判断しているのかを知りたい。また、小野昌弘は理解も必要であると述べたが、なぜ必要であるのかを述べていない。これはツイッターにおける尺の問題でなく、小野昌弘の宗教の表現の欠如の問題である。

小野昌弘は彼自身の経験や白人の状況を延々と引用して、報告してくる。あるいは白人の代弁者状態である。けれども、小野昌弘は自己の認識や判断を表現しないので、俺は小野昌弘が何を言いたいのかわからない。俺の印象では、小野昌弘は彼自身の引用や報告に納得して、「はい、そうですね」と言って欲しいように見える。

 CC-BY 4.0は「学術知は著者を引用し明確にした上で、誰でも自由に無料でアクセスでき利用されるべき(オープンアクセス)」という欧米の学術界の原則をライセンスで保証するもの。 研究の世界では著者を引用し敬意を表するのが大原則。引用をしないことは剽窃(盗用)になり、意図的な剽窃は罪が重い

https://twitter.com/masahirono/status/1424399980786118656

小野昌弘は「罪が重い」と述べた。しかし、この罪はキリスト教由来の罪であり、仏教徒や儒教徒には無関係である。たとえ小野昌弘が罪が重いと呟くとしても、俺らはだから何であるかを返答するだろう。加えて、小野昌弘は大原則という単語を使用したが、この原則もまた欧州人によって決定されたものである。

ここで問題になるのは、なぜ俺ら東洋人が欧州人が決定した原則や決まりに従うことが善であるのかである。さらに、小野昌弘は引用をしないことは剽窃(盗用)と呟いたが、小野昌弘は引用しないことを盗用と認識しているとは主張しない。小野昌弘は白人の決まりを意味もわからず引用しているだけに見える。

個人的には、俺は引用しないことは盗用でない(無引用)と認識する。東洋人視点では、たとえある人間が他の人間の著作を引用しなかったとしても、その第一発見者を名乗らないならば、その行為は盗用でないと認識する。もちろん、指摘された場合、きちんと引用するという対応が必要であると審判するけれども。

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