アリストテレスの目的因〜科学と数学は現代文明の基盤であるか?〜

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 四原因説(しげんいんせつ、: Four causes)とは、アリストテレスが自著『自然学』の中で論じた、自然学現象についてその4種類の原因: αἴτιον、アイティオン)を検討すべきであるとする説である

https://ja.wikipedia.org/wiki/四原因説

 アリストテレスは現象の原因を4つに分類した。それぞれは質料因と形相因、そして作用因と目的因と呼ばれた。以下では、俺らはアリストテレスの目的因とは何であるかを提示する。

例えば、俺らはサッカーのような運動競技を考えてみよう。俺らは人間社会(ソサエティ)をその運動競技と例える。そのとき、そのソサエティの中には、サッカーの運動競技場が存在して、それはテクノロジーの産物と科学者や数学者には感じられている。

なぜなら、サッカーの運動競技場(の建設)には、近代科学や近代数学が使用されてきた。大和民族の科学者や数学者はその事実を悪用して、彼らは「近代科学や近代数学が現代文明(人間競技)を作ってきた」と主張してきた。

 この主張は事実であるのだろうか?科学や数学がサッカー競技場を作ったのか?

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何がサッカーの競技場を作ったのか?

 俺の審判:科学や数学はソサエティ(人間競技)におけるサッカーの競技場を作っていない。

 科学や数学はソサエティ(人間競技)におけるサッカーの競技場を作っていない。サッカーの競技場が存在するためには、サッカーという運動競技が競技場よりも前に存在する。俺らがサッカーというソサエティを形成して、その運営のために競技場を建設する。

競技場の建設のためには、建設者である人間集団が必要である。その集団が競技場を実際に作るとき、その集団は数学や科学を使用して、競技場を建設する。その後、サッカーの競技場が完成する。

大和民族の科学者や数学者はその競技場を見て、科学や数学が使用されていると知る。このとき、彼らは「近代科学や近代数学は現代文明(人間競技)を作ってきた」と主張してしまう。この主張は実際的でない。

目的因 

 たとえ科学者や数学者が科学や数学を習得するとしても、科学者や数学者はサッカーの競技場を建設できない。なぜなら、科学者や数学者は自己の人間社会すらまともに形成できないので、建設者自体を組織化できない。そのため、科学者や数学者が科学的な知識を持つとしても、競技場は生じない。

では、何がサッカーの競技場を(間接的に)生じさせたのだろうか?その原因が目的である。ここでは、俺らは目的を俺らが実現したい状態(競技場が建設された状態)と便宜的に置く。口語的には、たとえ俺らが科学や数学を持つとしても、目的を持たないならば、競技場が建設されない。

お金の場合、競技場の建設には、お金が使用される。けれども、お金それ自体が競技場を建設しない、またはお金それ自体が競技場を建設する原動力になっているわけでない。たとえ俺らがお金を持つとしても、俺らが競技場の存在を実現したいという目的を実行しないならば、競技場は建設されない。お金あっても、目的がないと、途方に暮れて迷走して、何をやりたいのかわからない成金が生じる。

アリストテレスの目的因に対する感覚

 アリストテレスの目的因に対する感覚:たとえ俺らがお金や科学や数学を持つとしても、もし俺らが適切な目的を設定できないならば、そのとき、何も生じないだろう。

 言い換えると、お金や数学あっても、目的がないと、何もできない。お金や数学を持て余してしまう。アリストテレスの目的因は自然科学的でなく、人間社会的である。自然科学の世界には、目的が存在しないが、人間社会には目的が存在する。

日常的には、人間は目的を見失うと、迷走して、途方にくれる。その結果、彼らは呆然と立ちすくみ、何か意味のあるものを生産しなくなる。たとえある学生がお金をもち、科学や数学を習得するとしても、その学生がやりたいこと(研究の目的)をうまく設定できないならば、まともな論文は生産されない。いわゆる、勉強はできるが、研究できない学生。

これは国民側の視点からも同じである。たとえある研究者が研究者としての形式的な振る舞いや能力を持つとしても、もしその研究者の目的がはっきりしないならば、俺らはお金を彼らに貸すことをためらう。なぜなら、その研究者には、実現したい状態が存在しないように見える。その結果、まともな論文は生じない、つまり損害が俺らに与えられるのでは?と勘ぐる。

目的因と景観

 戦後の日本国は非常に豊かになった。大和民族の科学者や数学者はノーベル賞やフィールズ賞を受賞できるようになった。大和民族はたくさんのお金を持っているのにも関わらず、彼らはまともな景観を生じさせることができなかった。

富の蓄積や科学の発展に反して、日本列島の上の景観は非常に悪くなってきた。この景観の悪さは、俺の印象では、目的の欠如である。大和民族はどのような景観を日本列島に実現したいのかという目的を持っていない。だから、彼らは彼らの目的因を持って、まともな景観を日本国に実現することができない。

上記の画像はギリシア建築である。ギリシア建築には、お金や科学や数学が使用されている。また古代ギリシア人は建築組織を形成して、建築を作っただろう。けれども、お金や科学や数学だけでは不十分である。日本列島の上の崩壊した建築を見ればわかるように、ギリシア建築にも景観にも目的因が重要である。

目的因とカタカナ用語

 現在、日本国では不要なカタカナ用語が使用されてきた。これもまた目的因の欠如である。たとえ俺らがお金や科学を獲得するとしても、俺らはカタカナ用語を修正することはできない。なぜなら、俺らはきちんとした日本語を実現するという目的因を持っていない。

目的因と社会運動

  大和民族の政治活動:大和民族の政治活動の大部分は失敗するだろう。なぜなら、彼らは自己の実現したいソサエティを持っていない。

https://oreranitsuite.com/2021/04/08/koyama-akihiro/

 大和民族の社会運動のほとんどは失敗してきた。なぜなら、彼らは目的因を持ってこなかった。彼らは彼ら自身の実現したいソサエティそれ自体を持っていない。その結果、彼らは何も生じさせることができてこなかった。