屈折語とは何であるか?〜英語と具体例から分かりやすく、膠着語との比較も添えて〜

言語
https://unsplash.com/ja/写真/Hx8HaI4ERkA
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 屈折語(くっせつご、: fusional language)は、言語学上における形態論上の分類のひとつ。文法的機能を表す形態素が、の内部に分割できない形で埋め込まれる言語のことをいう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/屈折語

 以下では、筆者は屈折語が何であるのかを提示する。代表的な屈折語には、英語がある。一般的に、印欧語族は屈折語である。印欧語族には、フランス語やドイツ語やロシア語、ラテン語や古代ギリシア語が存在する。アラビア語も屈折語である。

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1.0 屈折語

1.1 定義

1.1(俺系統の認識) 屈折語は言語である、かつ時制や性や格や人称がある単語を別の単語に変化させる。

一般的には、屈折は「変形」と想像される。しかし、筆者の印象では、屈折は「置き換え」や「変形と置き換えの中間あたり」の現象である。

例えば、goがwentになる。doがdoesになる。これらが屈折である。前者は時制による屈折が生じている。後者は人称による屈折が生じている。格では、I, my, me, mineが存在する。性には、heとsheが存在する。

1.2 人称

英語では、単語は人称による変形や置き換えを受ける。例えば、「I have it.」は「he has it.」に屈折する。heという3人称はhaveという単語をhasという別の単語に置き換えた。一般的には、3人称単数には、-sが動詞に付加される。

日本語では、「言う」が「おっしゃる」に屈折する。例えば、「天皇が言う」は「天皇がおっしゃる」に屈折する。これは人称による屈折というよりも、主語による屈折である。人称による屈折を人工的に作ると、例えば、「キリスト教徒がいう」は「キリスト教徒がキーウ」に屈折する。この屈折が主体の宗教による屈折である。

では、なぜ人称による屈折が存在するのだろうか?著者の憶測では、印欧語族の話者(R1bとR1a)は運動における自己と非自己を区別したかった。また、彼らは運動がその主体に依存することを表現したかった。R1bとR1aの認識では、動詞の主体が異なると、動詞それ自体も異なるのだろう。彼らは自己が運動することと非自己が運動することを別の運動として根本的に区別しているように思える。ただし、その運動の共通性は存在するので、hasとhaveのようにhaという共通部分が残る。

1.3 格

英語では、単語は格による変形や置き換えを受ける。例えば、「I like me.」が格(目的格)による屈折である。主格Iがmeに格(目的格)で屈折している。所有格では、主格Iはmyに屈折する。

なお、日本語では、「俺は俺を好む」である。この表現では、日本語話者は目的格を「俺+を」で表現している。日本語は膠着語である。膠着語では、格は単語と助詞「てにをは」のくっつけ(膠着)で表現される。主格は「は」を単語にくっつける。目的格は「を」を単語にくっつける。所有格は「の」を単語にくっつける。

格による屈折は日常的にも分かりやすい。もし格による屈折が存在しないならば、誰が何に作用したのかが分かりにくい。例えば、「俺 彼女 好き」では、俺が彼女を好むのか、彼女が俺を好むのかは不明である。そのため、格で屈折させるか、助詞「てにをは」の結合を考えるか、順序を重視するか、という選択肢が残る。

1.4 時制

英語では、時制が異なるとき、動詞も時制に応じて変化する。例えば、「I go.」は「I went.」に時間で屈折する。一般的には、過去の動詞には、-edが結合させられて、単語が屈折する。

この感覚は分かりやすいように思える。例えば、現在の運動は見えるが、過去の運動は見えない。ある主体の過去の運動は形容詞や服のようにその主体に纏わりついている。同じ「行く」でも、「行った」は状態的(形容詞的)であり、「行く」は運動的(動詞的)である。だから、時制が動詞を変化させる。

日本語では、「行く(iku)」は「行った(itta)」に変化する。日本語は膠着語であるが、この変化は屈折的である。膠着的な表現では、「行く(iku)」は「行くた(iku-ta)」になる。ここでは、行くに「た」という助詞のような何かがくっつけられている。

1.5 性

英語では、性別が異なるとき、人称代名詞も変化する。例えば、heがsheに変化する。これが性に関する屈折の例である。

上記の屈折は日本語でも観察される。例えば、日本語にも、「彼」と「彼女」が存在する。1人称でも、「俺」は男性を表現する。「うち」は女性を表現する。「私」は性に依存しない。つまり、日本語には、主語に関する男性的な屈折と女性的な屈折と中性的な屈折が存在する。

性による屈折を人工的に作ると、例えば、「彼女はそれを認識する」は「彼女はそれを雌認する」に屈折する。つまり、ある雌が何かを認識するとき、その認識するという行為は「雌認する」に屈折する。実際、サピエンスの雌とサピエンスの雄の認識能力は互いに異なるので、認識するという運動も性で異なる。だから、異なる表現が与えられる。なお、サピエンスの雌の認識能力はサピエンスの雄の認識能力よりも劣っているので、同じ「認識する」は存在しない。サピエンスの雌とサピエンスの雄の認識は根本的に異なる。

2.0 使い方

以下では、彼は屈折語の使い方を提示する。なお、著者が下記の屈折を人工的に考えた。彼は下記の文章には、”屈折的な精神”が存在すると感じる。

2.1 主語による屈折 

第二次世界大戦では、ドイツ人の先祖は他者を大量に虐殺した。にも関わらず、ドイツ人は宗教的にも人種的にも無関係な有色人をナチスやヒトラーに例えてきた。一般的に、西欧白人は彼ら自身の先祖の行為を他者に投影して、他者を侮辱する。彼はこの行為に違和感を覚える。そこで、彼は主語による屈折を提示して、ドイツ人の行為を防止する。

例えば、「ドイツ人がある人間を殺す」を「ドイツ人がある人間を独殺する」に屈折させる。この時、たとえドイツ人がある日本人を見て、その日本人をナチスに例えて、「ナチスドイツは多くのユダヤ教徒の白人を殺した」と日本人をナチスと匂わすとしても、その表現は「ナチスドイツは多くのユダヤ教徒の白人を独殺した」に屈折する。

この時、その日本人は「俺はドイツ人でないので、俺は独殺しない」と返答することができる。すると、その日本人はドイツ人による行為の責任転嫁を動詞の屈折によって防止することができる。例えば、上記を人称へと適用すると、自分が殺す時は、それは「俺はある人間をやる」に屈折する。他人が殺す時は、それは「」に屈折する。

2.2 宗教による屈折

次に、彼は宗教による動詞の屈折を考える。ユダヤ教徒の白人はユダヤ教を信仰する人間を「ユダヤ人」と定義する。しかし、彼はユダヤ教を信仰する人間はユダヤ人でなく、ユダヤ教徒であると感じる。しかし、ユダヤ教徒の白人は彼らの宗教書に沿って、彼ら自身を定義する。一方、筆者は彼自身のx教系統の認識に沿って、ユダヤ教徒を定めようとする。つまり、宗教が異なると、定義するという行為や誰が何であるのかも異なる。この時、彼は宗教による屈折を提示する。

例えば、「ユダヤ教徒がある対象を定義する」が「ユダヤ教徒がある対象をジュギする」に屈折する。この時、単語それ自体もユダヤ人やユダヤ教徒のように異なる。前者はユダヤ教系統の単語であり、後者は彼自身のx教系統の認識である。

2.3 宗教と性による屈折 

さらに、彼は宗教と性による屈折を考える。えりアリフィヤという統治者の立候補者が存在した。彼女は西欧白人の視点と価値観をそのまま話して、それらを日本国や大和民族へと強制しようとした。彼が彼女を見る時、彼は彼女はキリスト教系統の言葉を話しているのかと疑問に思う。そこで、彼は彼女の行為を宗教と性で屈折させて、彼は彼女がキリスト教系統の言葉を話しているのかを明らかにしたいと考える。

例えば、「えりアリフィヤが話す」は「えりアリフィヤはクリす」に宗教で屈折する。クリすは「(クリスチャン)が話す」の省略形である。または、「えりアリフィヤはキリす」に屈折する。この時、えりアリフィヤはキリスト教系統の言葉を話しているので、非キリスト教徒は彼女の言葉を聞く必要がなくなる。そして、彼女が形成する法律も施行の時に話す言葉もキリスト教系統の言葉と行為である。

さらに、「えりアリフィヤが話す」は「えりアリフィヤが雌話す(雌話す)」に性で屈折する。この時もしあるえりアリフィヤが雌話すならば、雄は彼女の話を聞く義務がない。なぜなら、彼女は雄話していない。上記の宗教及び性による屈折を融合させると、「えりアリフィヤが話す」は「えりアリフィヤが雌クリす」に屈折する。この動詞雌クリすは「キリスト教系統の女性が話す」である。現時点では、彼は宗教と性の順序を考慮しなかった。

電飛

屈折(ニコニコ) ここには、屈折に関する分かりやすい説明がある。

抱合語 

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