この宗教の基本姿勢

 この文章はこの宗教に関する日常的な文章である。以下で、俺はこの宗教に関する基本姿勢を提示する。以下はわかりやすくなんとなくの雰囲気を提示する。

1章 この宗教における基本姿勢

 基本姿勢 信仰者は物事に対して彼らの脳を彼ら自身の意志で人為的に操縦せよ。

 上記を簡潔に述べると、この宗教では、「信仰者は基本的に自分で考えよ」を教えとする。ただし、注意点がいつくか存在するので、俺はそれらの注意点を次で提示する。

1節 教祖について

 教祖 教祖の役割とは、人工的な世界の創造である。

  日本列島では、宗教は教祖という偉いカリスマ的な存在がいて、信者は教祖の言葉を創造主の言葉のように崇拝する。これは日本列島における宗教の印象であってきた。しかし、この宗教では、俺らはこの種の印象を取らない。

教祖とは、人工的な世界を創造する対象である。日常的には、教祖は運動競技の創造主や道路の敷設業者に近い。教祖は道路を敷設して、信仰者はその中で彼らの肉体を彼らの意志で操縦する。当然、その時、信仰者は宗教的な交通ルールに沿って、彼ら自身の車体を運動させる。

また、その交通ルールには、教祖の意志が詰まっている。信仰者は彼らの肉体を自由に運転させるが、教祖の意志に反しないように運転させる必要がある。なぜなら、その交通systemの目的は創造主の意志によって創造された。

2節 完全に自由でない

 この宗教の基本方針は「自分で考えろ」である。しかし、その意味は何もかも好きにしろや完全な自由でない。完全に自由な状態とはスラム街の思考である。道路で例えると、完全な自由とは、交通ルールを守らないめちゃくちゃな運転である。

自然法則も完全な自由でなく、秩序やパタンを自然界に与えている。同様に、信仰者は宗教という人工的な世界の範囲内で自由である。俺らが道路に沿って俺らの肉体を好き勝手に運転できるように、俺らは人工的な世界のルールに沿って、俺らの肉体を操縦できる。

完全に自由な状態はなんでもありであり、その状態は少年漫画の世界に近い。実際に、非論理的な人間の大部分は少年漫画とスラム街のような思考を持つ。

3節 教祖などに縋り付かない

 この宗教では、信仰者は他人に縋り付かないように注意する。信仰者は他人の文章や他人の言葉に依存せずに、彼らは自力で生きる必要がある。現実的にも、なんでもかんでも他人に尋ねる人間はうざいはず。

同様に、信仰者は教祖などに縋り付かずに、彼らは自分の意志で彼ら自身の人生を生きよ。その時、信仰者は彼ら自身の認識や審判をより優先せよ。何も考えずに他人に依存することは非常に楽であるが、教祖はそれを正統と認識しないし、それを認めない。なぜなら、盲目で馬鹿な人間がこの宗教の目的を実現できると教祖は考えない。

ただし、繰り返すが、信仰者は教祖との約束や教祖の(明文化された)意志に絶対に反してはいけない。例えば、この宗教の目的は俺のヌシの復活である。この信仰の目的が破壊されない範囲で、信仰者は各自の認識と審判を優先せよ。

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