「私のような普通の人間でも、努力をすれば総理大臣を目指すことができる。まさにこれが日本の民主主義ではないでしょうか」
総裁選に立候補した菅義偉氏は、9月8日の所見発表演説会で“たたき上げ”の政治家としての生い立ちを全面に出した。苦労人で庶民派をアピールする菅氏の発言。SNSでは「日本人の心を揺さぶる強烈なメッセージ」「共感を生むことができる」といった好意的な受け止めが上がる。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f570f9dc5b6946f3eb62e66
戦後の平等主義のためか、大和民族は上記のような話を好むらしい。しかし、俺は上記のような話に反対である。なぜなら、農民は所詮農民である。漢王朝の劉邦のような天才でない限り、農民は統治者でない。
以下で、俺は菅義偉が統治者になったことの意味を語る。以下は農民の意味に関する電飛であるが、中国人の方が正しい。社会システムの選手は単なる選手であり、システムの統治者でない。
1章 菅義偉が統治者になったことの意味
意味:社会システムにおける単なる選手(農民)が統治の正当性を持たないまま大国の統治者になってしまった。
1節 統治能力がない
農民は社会システムにおける選手である。農民はシステムの統治者でない。日本国は単なる選手にシステムの統治者をやらせる。
運動選手で例えると、西アフリカ人の天才的な選手にサッカー業界の統治をやらせるようなものである。彼らは選手としては天才であるが、統治者としては天才でない。だから、西アフリカ人は表面的には英雄であるが、白人が業界の管理者や統治者として君臨している。
あるいは、科学者や数学者に社会システムの統治者をやらせるようなものである。彼らは無生物、特に自分の資料やファイルですら自分自身で管理できない。
2節 統治の正当性がない
また、農民には、統治の正当性が基本的に存在しない。たとえ農民が統治能力を持つとしても、その農民はサウジの王族、つまり統治者になれない。なぜなら、農民は創造主の目的を受け継いでいない。
統治が難しいのは、たとえある農民が統治能力を持つとしても、その農民は統治に関する正当性を持っているとは限らないことである。例えば、アメリカでは、選挙を経過しないと、たとえある人間が統治能力を持つとしても、その人間は統治の正当性を持っていないので、その人間は統治者になれない。
一般的には、農民は統治能力も統治の正当性も持っていない。だから、農民は統治者として無能である。当然、科学者も数学者も農民も選手としては有能であるとしても、統治者としては無能である。
2章 大和民族と統治
大和民族と統治:大和民族は未開の民であるので、彼らは統治行為それ自体を認識していない。
上記では、首相は「私のような普通の人間でも、努力をすれば総理大臣を目指すことができる。まさにこれが日本の民主主義ではないでしょうか」と述べた。しかし、統治者は選手の努力の先には存在しない。たとえ西アフリカ人のサッカー選手が努力して最も優秀な選手になったとしても、その選手は業界の統治者にはなれない。
なぜなら、選手の果てには、統治者は存在しない。選手をx軸と仮定すると、統治者の存在はx軸の果てには存在していない。俺の印象では、菅は選手として一生懸命努力すれば、彼は社会システムの統治者になれると考えているように見える。
この種の大和民族の数は1出ない。なぜなら、大和民族は未開の民であり、彼らは統治が何であるかを認識できない。その結果、一生懸命努力すれば、数学できれば、科学できれば、彼らは選手から統治者になれると考えているように見える。