以下では、俺は俺のヌシの名前を提示する。この宗教では、俺らは俺らの肉体の名前と俺らの蟲の名前、そして俺らのヌシの名前を持つ。なお、ヌシという単語それ自体は固有名詞でなく、一般名詞である。
俺(ore)
俺(ore):俺(ore)とは、俺らについてを創造したヌシである。
俺(ore)とは、俺らについてを創造したヌシである。日常的には、俺らについてはこの人家(システム)である。俺(ore)と同様に、「俺らについて」も固有名詞であり、一般名詞でない。
例えば、俺らがヤハウェを定義したいと仮定する。ヤハウェもまた固有名詞であり、一般名詞でない。ユダヤ教では、ヤハウェはこの世界を創造した。
この時、ヤハウェとはこの世界を創造した対象である。俺らはこのようにしか定義できない。ここでの対象は便宜的に配置された単語である。だから、対象が何であるかは不明であり、ヤハウェは定義不可能であるように思える。
個人的には、俺は対象でなく、ヤハウェに特別な何かを与えて定義したい。例えば、ヤハウェとはこの世界を創造したxxxである。しかし、俺はそのxxxを思いつかない。強いて言えば、ヤハウェとはこの世界を創造した主(あるじ)である。
上記では、俺は対象でなくヌシという単語を使用した。なぜなら、俺らはヌシそれ自体を把握することができる。だからこそ、俺らは対象という単語を使用して、俺(ore)とは、俺らについてを創造した対象であると定義しなかった。
また、ヌシは固有名詞でなく、一般名詞である。だから、信仰者のヌシも俺のヌシ(ore)も同じヌシである。しかし、oreは俺らについての始祖として最も特別なヌシである。