以下では、俺はこの宗教における結婚を提示する。西洋文明では、結婚は愛と契約によって結ばれた。その愛と契約はキリスト教における影響の下にあってきた。俺らはこの種の結婚観を採用しない。
俺らは結婚を父から息子へと授けれてきた人間性(humanity)を結婚相手へと宗教的に注ぐ行為と信仰する。その始祖的な父(ヌシ)は俺自身である。正当化はまだ考えていない。
結婚
結婚
結婚:結婚とはある主体(ヌシ)がその主体(ヌシ)の人間性をもう一方の対象(相手)へと宗教的に注ぐ行為である。
結婚とは、ある主体(ヌシ)がその主体(ヌシ)の人間性をもう一方の対象(相手)へと宗教的に注ぐ行為である。正確には、結婚とは、ある主体(ヌシ)がその主体(ヌシ)の父から息子へと宗教的に授けられてきた人間性をもう一方へと宗教的に授ける行為である。このとき、もう一方の対象はその主体系統の人間性を持ち、その主体系統の人間になる。
相手のヌシが存在しない場合
相手のヌシが存在しない場合:もし相手が自己のヌシを持っていないならば、そのとき、俺らは相手との結婚を通して、相手のヌシの存在を相手の中に擬似的に信仰する。
もし相手が自己のヌシを持っていないならば、そのとき、俺らは相手との結婚を通して、相手のヌシの存在を相手の中に擬似的に信仰する。結婚の目的の一つは俺らの人間性の相手への授与である。もう一つの目的とは、ヌシの存在の信仰である。俺らは結婚を通して、俺ら自身の人間性を相手へと注ぎ、そしてヌシの存在を相手の中に信仰する。
結婚が不要な場合
結婚が不要な場合:もし相手が自己のヌシ及び自己の人間性を持つならば、そのとき、俺らはその相手と結婚する必要はない。
もし相手が自己のヌシ及び自己の人間性を持つならば、そのとき、俺らはその相手と結婚する必要はない。結婚とは、人間性とヌシの宗教的な授与である。だから、もし相手がヌシと自己の人間性を持つならば、そのとき、相手は既に人間であるので、俺らはその相手と結婚を通して人間性をその相手へと付与する必要はない。