神話(しんわ、英: Myth、Mythology)は、人類が認識する自然物や自然現象、または民族や文化・文明などさまざまな事象を、世界が始まった時代における神など超自然的・形而上的な存在や文化英雄などとむすびつけた一回限りの出来事として説明する物語であり、諸事象の起源[1]や存在理由を語る説話でもある[2][3]。このような性質から、神話が述べる出来事などは、不可侵であり規範として従わなければならないものとして意義づけられている[2][3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/神話
以下では、俺は神話の役割を提示する。近代科学の発達は神話の重要性を低下させた。けれども、俺は科学には人間の認識や善悪の判断は存在しないので、宗教書としての神話は “歴史的には” 非常に重要であると審判する。
神話
神話と認識に関する前提
神話と認識に関する前提:任意のホモ・サピエンスが自己の認識を必ずしも持っていない。
任意のホモ・サピエンスが自己の認識を必ずしも持っていない。言い換えると、ホモ・サピエンスと呼ばれる個体には、自己の認識がない個体や種族が存在する。この種の個体は自然界に対する知覚しか持っていない。
つまり、自己の神話がないということはそのホモ・サピエンスの先祖が世界に対する自己の認識を持っていなかったことを暗示する。俺らが世界に対する認識を世界に対する善悪や善悪の判断の前に置くとき、神話を持たないホモ・サピエンスは自己の善悪(レッドカード)や自己の善悪の判断(正当な使用)も当然持っていないだろう。
なぜなら、ホモ・サピエンスは世界を認識した後に、その認識に基づいて善悪や善悪の判断を創造する。自然界に対する知覚→世界に対する認識→善悪の創造→世界に対する(善悪の)判断が文明的な流れである。神話は世界に対する認識に対応して、本格的な宗教(ユダヤ教や仏教や儒教など)は善悪の創造→世界に対する(善悪の)判断に対応する。
神話と認識
神話と認識:神話は世界に対する正当な認識を記録している宗教書(宗教話)である。
神話は世界に対する正当な認識を記録する話である。自然界に対するホモ・サピエンスの知覚は、目の色などを除くと、大体は一致する。けれども、世界に対する認識はホモ・サピエンスに応じて著しく異なる。
だから、俺らは世界に対する俺らの正当な認識(正しい認識)を神話の形で記録する必要がある。例えば、善悪や善悪の判断は自然界には存在しないので、人間が善悪を決定して、善悪を正しく判断する必要がある。けれども、その時、どの善悪が正当であるのかという善悪の正当性の問題が生じるだろう。
同様に、世界に対する認識においても、どの認識が正しいのかという認識の正当性に関する問題が生じてくる。例えば、ある人間の行為がいじめであるのかはどうか自然界を調べてもわからないだろう。同様に、現在の状況が白人帝国主義であり、モンゴロイド人種に対する奴隷的な状態であるのかは人間の認識に依存する。
世界の認識の欠如に関する具体例
具体例:大和民族のほとんどはアメリカ大陸におけるモンゴロイド人種の状態を奴隷的な状態を認識していない、かつその認識を神話として記録しようとしていない。
大和民族のほとんどはアメリカ大陸におけるモンゴロイド人種の状態を奴隷的な状態を認識していない、かつその認識を神話として記録しようとしていない。自己の認識が存在しないということはこのような現在の状況である。物理学者の大栗博司や村山斉、ips細胞の山中慎也ですらアメリカ大陸における現在の状況を奴隷的な状態を正確に認識して、その認識を記録しようとしていない。
上記でも述べたが、俺の経験では、世界に対するホモ・サピエンスの認識は自然界には存在しない。そのため、もし俺らが世界に対する認識を記録しないならば、その時、俺らはアメリカ大陸における現在の状況に対する認識を永久に失うだろう。神話の面白い点は自然界に対する知覚でなく、俺らの先祖が世界をどのように認識していたかである点であるように感じた。
神話と民族
神話と民族に関する前提
神話と民族に関する前提:もしある民族が自己の神話を持たないならば、その民族は父から息子へと授けられてきた自己の人間性(humanity)も持たない。
もしある民族が自己の神話を持たないならば、その民族は父から息子へと授けられてきた自己の人間性(humanity)も持たない。多くの神話では、民族は神々の父系子孫であると信仰されてきた。またはこの種の民族は創造主によって創造されて、その創造主の人間性を父系または創造主から受け継ぐ子孫と信仰されてきた。
ある民族が自己の神話を持っているということはその民族が父系で受け継がれてきた人間性を持っていることである。もしある民族が自己の神話を持っていないならば、その時、その民族は父系で受け継がれてきた人間性を持っていないことである。一般的に、神話は民族の形成に非常に密接に関係するが、この関係の本質は「俺らはどの人間性を父系で受け継いできたのかを神話の形で知る」ことである。
神話がないということは父系で受け継いできた人間性を持っていないことである。その時、彼らは自己の正しい認識も自己の正しい善悪も判断も持っていないことである。当然、彼らは自己の創造性も自己の精神や人格、自己の意志や魂も持っていない。
神話と民族
神話と民族:神話は特定の系統の人間性をある民族に授けて、その民族を定義づける、または認識づける。
神話は特定の系統の人間性をある民族に授けて、その民族を定義づける、または認識づける。例えば、日本神話では、大和民族はイザナギの人間性を受け継いでいるのかもしれない。北欧神話では、ゲルマン民族はオーディーンの人間性を受け継いでる。
ギリシア神話では、ギリシア民族やイタリア民族はゼウスの人間性を受け継いでいる。ユダヤ教徒のセム系民族は宗教的にはヤハウェの人間性を受け継いでいる。ただし、キリスト教のような世界宗教の場合では、事情が少し異なる。この種の世界宗教では、キリスト教徒それ自体がイエス・キリスト?の人間性を信仰的には受け継いでいる。
人間性は父系から息子へと受け継がれる創造性や意志や魂である。しかし、その人間性それ自体が自然界における対象、つまり物質でなく、信仰上の産物である。だから、キリスト教徒がたとえ人間性の遺伝的な血統が存在しなかったとしても、もしイエス・キリストに対する敬虔な信仰が存在するならば、その時、キリスト教徒はイエス・キリストの人間性を宗教的に受け継ぐと解釈するとしても宗教的にはそれほどおかしくない。