なぜ青識亜論(BlauerSeelowe)の議論や論点整理はくだらないか?〜大和民族と宗教〜

大和民族
https://togetter.com/li/1434019
広告

 青識 亜論(せいしき あろん、1月7日 – )は、徳島県[1][2][3]の論客[4]表現の自由を重視する立場を取り[5]、「リベラリスト[6]」、「インターネットシーライオン[7]」、「フェミニストにしてアンチフェミ[8]」ないし「アンチフェミでネトウヨ[9]」を自称している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/青識亜論

 青識亜論は電網論客であり、彼は議論をtwitterの上で実行してきた。俺が彼を見るとき、俺は大和民族は未開の民族であると結論づけた。以下では、俺は青識亜論の問題点を提示する。

広告

青識亜論の問題点

 青識亜論の問題点:青識亜論は自己の実現したいソサエティを彼自身の言葉で表現できない。

 青識亜論は自己の実現したいソサエティを彼自身の言葉で表現できない。言い換えると、青識亜論は自己の宗教や宗教が与える彼の善悪が何であるかをを彼自身の言葉で表現してない。外部から見ると、青識亜論はどのようなソサエティを形成したいのかをはっきりと表現できていない。

キリスト教のソサエティを実現したいか?

 俺の印象では、青識亜論は「君はキリスト教のソサエティを日本列島に実現したいのか」という質問に回答できない。青識亜論は「君はユダヤ教のソサエティを日本列島に実現したいのか」という質問に回答できない。青識亜論は「君は儒教のソサエティを日本列島に実現したいのか」という質問に回答できない。

青識亜論だけでなく、白饅頭(御田寺圭)小山晃弘も同じ性質を持っている。非常に不思議なことに、彼らは議論好きであるように見えるが、青識亜論も白饅頭(御田寺圭)も小山晃弘も自己の実現したいソサエティを彼ら自身の言葉で表現することができない。彼らは自己の実現したいソサエティすら彼自身の言葉で表現できないのに、彼らはポリコレやフェミニズムについて語っている。

もし青識亜論が自己の実現したいソサエティを持たないならば、俺は青識亜論がフェミニズムやポリコレについて語ることは時間の無駄であるように思える。ユダヤ教徒やキリスト教徒の西側白人は自己の実現したいソサエティ(ユダヤ・キリスト教のソサエティ)を持っているからこそ、彼らはフェミニズムやポリコレを主張してきた。

青識亜論の議論?

 俺の印象:青識亜論の議論は単なるマウンティングにしか見えない。

 青識亜論の議論は単なるマウンティングにしか見えない。正直な話、俺は彼の議論の大部分は時間の無駄であるように見える。上記でも述べたが、青識亜論は自己の実現したいソサエティそれ自体を持っていないので、議論する意味それ自体が存在しない。

議論の公開キャバクラ化

 上記でも述べたが、青識亜論は何をやりたいのかよくわからない。彼は白人様の価値観という白い棍棒を使用して、彼は他人を論破して、良い気持ちになりたいだけであるように見える。そこには、青識亜論が実現したい社会が存在しない。

その結果、議論それ自体がキャバクラ化する。青識亜論を見ると、青識亜論は議論を通して、他人に自分の意見を聞いてほしいだけに見える。だから、聴く方から見ると、青識亜論の議論はキャバクラにおける客(おっさん)の自慢話しに近いように見える。

一般的に、青識亜論を含む大和民族は社会運動を自己の実現したいソサエティと認識していない。そのため、彼らは社会運動を通して、構ってほしい、ちやほやされたい、そしてマウンティングしたいと感じてしまう。その結果、大和民族の社会活動の大部分は愛情の確認手段や馬乗り手段になってしまう。

 青識亜論の場合、青識亜論は「論理的な自分を見てほしい」や「他人を論破する自分に快感」を覚えているように見える。あるいは、青識亜論は「良いことをしたい」と感じている。

何のための議論

 青識亜論の議論を眺めるとき、俺は青識亜論は何のために議論しているか疑問に思う。俺にとって、議論とは、自己の実現したいソサエティを実現するための手段(情報交換や意思表示)である。しかし、青識亜論は自己の実現したいソサエティそれ自体を持っていない。

そのため、俺は青識亜論は対話や議論と称して、他人を屈服させたいだけであるように思える。俺は青識亜論が何のための議論しているのか、彼の心理を把握できない。彼は議論や対話それ自体をキャバクラにおける会話や苦情者として楽しんでいるように見える。

しかし、多くの人間にとって、対話や議論とは自己の実現したいソサエティを実現するための手段(情報交換や意思表示)である。もし自己の実現したいソサエティが共有されないならば、俺らは青識亜論と議論や対話をする必要性はないし、青識亜論の降らない議論を眺める必要はないだろう。