このように問うなかで、しばしば忘れられている前提がある。それは、遺伝学的見地からは、「人種」は存在しないという指摘がなされていることである。しかし、そう言われても、感覚的には納得できない人は非常に多いはずである。また、「人種はない」という表明は、現在も明白に存在するレイシズムを隠蔽しているようにも思われかねない。むしろ、単純に「人種はある」と考える方がふつうなのではないだろうか。本記事では、「人種はある」という立場と「人種はない」という立場を対照させながら、「人種」とレイシズムの関わりを解説する。
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磯直樹は社会学者(笑)であり、彼は遺伝学者や生物学者でない(なぜ社会学者が人種は存在しないと主張しているのか?)。以下では、俺は俺が上記の文章を読んで感じた違和感を提示する。上記の文章は大和民族に典型的な文章であり、それは非常に悪い。
以下では、俺は人種について提示した後、俺は磯直樹の文章と精神の悪性を提示する。
人種は存在しないのか?
俺の認識:俺は人種を生物的な事実として認識している。
俺は人種を生物的な事実として認識(cognize)している。正確には、俺は主要な人種として、モンゴロイド人種とネグロイド人種とコーカサス人種を生物的な事実として認識している。
人種は存在するかという問い〜存在でなく、認識を〜
磯直樹は白人様の霊言を延々と繰り返してきた。彼は「人種は存在しない」と断定した。けれども、「人種は存在するのか」という問いは問いの立て方が悪い。
俺らは「人種は存在するのか」でなく、「君は人種を認識しているのか」と質問する必要がある。俺らは磯直樹に「磯直樹は人種を認識していないのか」、「磯直樹はモンゴロイド人種とネグロイド人種とコーカサス人種を認識していないのか」と質問する。
俺の予想では、俺らが人々に君は人種を認識しているのかと質問するとき、もし人々が適切な認識能力を持つならば、彼らは君は人種を認識していると回答するだろう。上記で引用されている、科学者もまた「ジョルダン・ベルトランよ、君は人種を認識していないのか」と質問すれば、彼もまた認識していると回答するだろう。
科学は知覚を明らかにする
自然科学では、俺らは自然界に関する情報を製造する。けれども、その情報には、自然界に対する認識は埋め込まれていない。言い換えると、自然科学が明らかにするのは知覚に関するものである。
自然科学は人間の認識を明らかにしない。理論物理では、この自然界は究極的には素粒子の組み合わせである。その極小の世界には、ホモ・サピエンスも動物も、生物も水も太陽も存在しないだろう。当然、人種も存在しない。
なぜなら、その素粒子的な世界からは人間の認識が除去されている。人種も同じであり、分子遺伝学はより知覚的であり、認識的でない。だから、人種は存在しないという主張が繰り出される。人体や車を分解していくと、人間は人体や車を認識しづらくなる。
磯直樹の卑怯な行為
磯直樹の卑怯な行為:磯直樹は欧州人(白人)の霊言を繰り出すが、自己の審判や認識や判断を提示しない。
磯直樹は欧州人(白人)の霊言を繰り出すが、自己の審判や認識や判断を提示しない。彼は自己の宗教も善悪も目的も意志も明らかにしない。磯直樹は「人種は存在しない」と彼自身が認識しているのかすら表現しない。
チャールズ・ハーシュマンの霊言
一方で、米国の社会学や人口学における「人種」概念の使用については、高名な人口学者であるチャールズ・ハーシュマンによって疑義が唱えられている(Charles Hirschman, 2014, “Origins and Demise of the Concept of Race”, Population and Development Review, Vol. 30, No. 3, pp. 385-415.)。彼の主張は、概ね以下の通りである。
人種概念はこの4世紀ほどの間に形成されたものであり、19世紀後半から20世紀前半までは「イデオロギー的」であり、20世紀後半から科学的知識との関わりが深くなっていった。科学的知識はしかし、20世紀前半までに形成された「人種」カテゴリーを再生産していき、人びとの日常的認識だけでなく、(国勢調査を含む)公共政策や学術研究においてもレイシズムが生き延びることになった。現在でも「人種」を実体化する言説はメディアにも学術界にも見られるが、「人種」にはレイシズム以外にその根拠となる概念的基盤がない。社会的カテゴリーとしての「人種」には、論理的基盤がない。だから、「人種」概念は用いるべきではない。代わりに、エスニシティ概念を用いるべきである。以上がハーシュマンの主張である。米国の社会学や人口学だけでなく、医学においても彼のような立場は主流ではない。しかし、遺伝学を中心に「人種」概念の科学的根拠は否定されており、ハーシュマンの議論は補強することができる。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73415?page=2
磯直樹は「しかし、遺伝学を中心に「人種」概念の科学的根拠は否定されており、ハーシュマンの議論は補強することができる。」と主張?した。しかし、この文章は端的に意味不明である。磯直樹は「補強することが “できる”」と言ったが、俺は補強できると審判しない。
また、上記の文章では、主語が存在しない。磯直樹はハーシュマンの霊言を使用して、磯直樹の単なる感情を読者に刷り込もうとしている。例えば、「ハーシュマンの議論は補強することができる」という文?の主語は存在しない。
磯直樹はハーシュマンの議論が正しいように匂わせているだけである。そのとき、磯直樹は存在しない幽霊に補強することができさせている。誰かがハーシュマンの議論を補強しているように匂わせている。
おそらく、磯直樹は「補強することが “できる”」→読者「そうですか、ハーシュマンの議論は正しいですね。だから、人種は存在しないのですね」と言って欲しいように見える。本来であれば、磯直樹はハーシュマンの意見が正しいかをきちんと表現しなければいけない。そして、”誰が” その議論を補強したのかを明らかにせよ。
米国人類遺伝学会やフランスの霊言
2019年3月の朝日新聞の記事でも報じられたが、2018年、米国人類遺伝学会(ASHG)は「人種」概念を用いないよう声明を出した。この声明では「白人の優越性」を主張することに警鐘を鳴らし、生物種としての人類に下位分類はできず、遺伝的に人類を異なる集団に隔てることはできないと述べられている。加えて、「人種」とは社会的構築物であることが強調されている。
このような立場は米国の遺伝学に限らない。例えば、フランスの遺伝学者であるベルトラン・ジョルダンは邦訳もある著書『人種は存在しない』において、生物進化、医学、薬学、スポーツ、知能などの事例を取り上げながら、「人種」がないということを説得的に論じている。ジョルダンの基本的な立場は、先の声明と同じである。
こうした遺伝学の知見を踏まえ、日本の高校の教科書でも、2010年代からは「人種という区分に科学的根拠はない」という記載が見られるようになった(『新世界史 改訂版 世B313』、17頁)。「人種はない」という考え方は、奇異なものではなくなってきている。
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上記の文章は典型的な大和民族の文章である。この種の文章は出羽守と呼ばれている。磯直樹は米国の人類遺伝学会は人種を用いないように声明を出したと主張した。また、フランスの学者は人種は存在しないと主張したと引用した。
けれども、磯直樹はその声明についてどう思っているのかを表現していない。磯直樹はなんとなく「米国が声明を出したんだから正しいのだろう」ということを匂わせて、読者に人種は存在しないと言って欲しいように見える。さらに、磯直樹は「人種はないという考え方は、奇異なものではなくなってきている」と書いたが、俺はだから何か?と感じる。
一般的に、大和民族は白人に意見を霊言して、「白人が言ってるよ。ほら、日本人も!」と言えば、自分の感情や欲求が通ると感じているように見える。磯直樹は白人の霊言を次々と引用するが、俺は彼が何を言いたいのかわからない。なぜなら、彼は自分の意見を言っていない!
磯直樹は何かを延々と報告してきて、俺らに何かを期待している。磯直樹は単なる自分の願望をまるで人間の意志では逆らえない自然現象のように語る。「人種はないという考え方は、奇異なものではなくなってきている」という文章も典型的である。
「人種はないという考え方は、奇異なものではなくなってきている」を自然現象と語ることによって、磯直樹は読者に人種はないと考えて欲しいように見える。そして、もし学生が人種は存在すると主張するならば、その学生は自然という神様に逆らった何かとして注意される。あるいは、磯直樹は人為的な認識を自然現象と語ることによって、その自然現象に対抗する人間の恐れや不安を悪用している。
現在のフランスでは、人種やエスニシティを公的調査で尋ねることを原則として禁止しており、公式にも「人種はない」という立場が貫かれている。フランスの現行の憲法は1958年に制定され、「人種」の文言が第1条に含まれている。しかし、今年6月、フランス国民議会下院はこの文言を削除するという改正案に合意しており、憲法はそのように改正される見込みである。
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上記でも、磯直樹はフランスをまるで自分の感情の箔を付けるように引用している。磯直樹はまるで「ほらみろ、フランスでも、人種が存在しないと言ってる。だから、人種は存在しない!」と言いたげである。そして、磯直樹は「日本もフランスを見習って、人種は存在しないと言おう。公的な調査で人種を質問するな」と言いたげである。
上記でも、磯直樹は上記のフランスの行為が正しいのかすら提示していない。磯直樹は白人の状態を善な状態を考えて、それに反対する行為を悪と判断している。
意味不明な霊言
本記事でここまで述べてきたことから、学術的観点からは「人種」概念の使用を放棄してもいいように見えるかもしれない。しかし、それを放棄したとしても、差別が容易になくなるわけはない。
むしろ、「人種はない」から「レイシズムもない」という理屈がつくられてしまうと、レイシズムに結果的に加担してしまうことになる。実際にある差別を隠蔽するだけだからである。これを、カラーブラインド・レイシズムという。米国で「人種」概念に固執する人びとが多いのは、この種のレイシズムに対抗するためでもある。「人種」概念を放棄することでレイシズムを見えなくしてはいけない、というわけである。
「人種はない」ということと「レイシズムはある」ということは一見対立するようであるが、実際には両立する。このような立場を示したのが、イギリスの社会学者ロバート・マイルズである。マイルズによれば、「人種」があるのではなく、それがあるように信じさせるレイシズムがあるのである(Robert Miles, 1993, Racism After ‘Race Relations’, London: Routledge.)。
「人種」はないにもかかわらず、どうしてそれが確固としてあるように思えてしまうのか。レイシズムに反対する側も、どうして「人種的平等」などと唱えて「人種」を実体化してしまうのか。ないものをあると思い込んでいる私たちの思考枠組み、さらには社会的現実こそが問われなければならない。
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人種や文明や宗教が異なるとき、ロゴスそれ自体が異なる。けれども、磯直樹はロゴスが何であるかを認識していないので、彼は西洋文明のロゴスを意味もわからずにそのまま引用する。