森田真生(orionis23)は独立研究者か?〜論文なき数学する身体〜

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 森田真生は独立研究者を自称しているらしい。俺は森田真生がどのような論文を書いているのかを知りたかった。だから、俺は森田真生の論文を検索した。

しかし、俺は森田真生の論文を発見できなかった。以下では、俺は森田真生に関する問題(俺の違和感)を大和民族の民族的な性質から捉えてみる。大和民族の数学者は森田真生を非常に嫌っているように見える。

けれども、俺は森田真生と大和民族の数学者は類似した問題を持っているように見える。俺は森田真生の行為はソーカル事件のような問題でなく、大和民族の民族的問題であると審判する。正確には、大和民族の組織的、かつ社会的な問題であると感じる。

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森田真生

白人の霊言としての数学

 白人の霊言としての数学:森田真生は数学を白人の霊言のように悪用している。

 森田真生は数学を白人の霊言のように悪用している。森田真生の行為は大和民族のキリシタン大名が「アメリカでは〜や私の白人の夫では〜」と言って白人や白人の夫の霊言を繰り出す行為に等しい。あるいは、大栗博司などのきちんとした学者ですら「アメリカでは二重国籍が認められている(だから、日本も二重国籍を…)」や「アメリカや北欧では男女平等が!それに対して、日本ではジェンダーギャップが〜」と延々と引用・報告してくる。

しかし、この種の大和民族は彼自身の意見を絶対に主張しないし、自己の宗教や善悪も自己の実現したい社会も絶対に明らかにしようとしない。この種の大和民族は自己の意見に責任を負ったり、批判されるのが怖いので、彼らは自分の思想や意見(二重国籍が欲しい)を白人の意見や白人の状態で包んで覆い隠して主張しようとする。そして、何か問題が生じたとき、彼らはその問題の責任から逃避して、白人に責任をとってもらおうとする。

彼らは「俺らは悪くない。俺知らない。白人がそう言っていただけ。白人の意見を引用しただけ」と言って予め言い逃れる道を作ろうとする。個人的な印象では、俺は森田真生は思想や宗教をやりたいように見える。しかし、彼は宗教それ自体を作る才能や数学に依存しない才能を作る能力を持っていない。加えて、森田真生は自分の意見の責任を取りたくないという心理が働いているように見える。

 森田真生は彼自身の思想や信仰を科学や数学で包んで伝達しているように見える。たとえ森田真生自身の思想や信仰が否定されるとしても、森田真生は「俺は数学を語っている」と返答する逃げ道を用意しているように見える。よく言えば、森田真生は自己の意見を権威づけるために数学や岡潔の霊言を悪用している。悪くいうと、森田真生は自己の思想や信仰を数学で包んで隠蔽して、数学をある種の霊言として引用している。

ファッション

 ファッション:森田真生は数学を単なるファッションで悪用している。

 森田真生は数学を単なるファッションで悪用している。この種の森田真生でなく、大和民族の典型的な性質である。例えば、大和民族のIT技術者や広告業界、時に小池百合子のような政治家はカタカナ用語をファッションで使用してきた。

個人的には、俺は森田真生の数学ごっこはカタカナ用語の延長上や類似した行為であるように見える。言い換えると、カタカナ用語も森田真生の数学もその場のノリや雰囲気で使用されてきた。この大和民族に特有の「ノリ」や「雰囲気」は民主主義への賛成や自由主義への賛成、または男女平等への賛成にも応用される。

大栗博司や立川祐二もまた民主主義や自由主義、そして男女平等に何となくファッションで賛成しているように見える。菊池誠や牧野淳一郎もまた何となくファッションで左翼やリベラルをやっている。だからこそ、彼らもまた大栗博司や立川祐二、菊池誠や牧野淳一郎も(おそらく)キリスト教徒でないのに、左翼やリベラル、男女平等や民主主義にファッションで賛成している。

 この種の行為は森田真生が数学をファッションでやっている行為に等しい。一般的に、大和民族は、数学や量子力学だけでなく、民主主義も自由も男女平等もLGBTも差別運動も白人のモノマネやファッションやノリや雰囲気でやってきたように見える。そこには、宗教的な整合性や歴史的な経緯は存在しない。

大和民族の科学者や数学者が科学や数学をやるのも、何となく白人っぽい、何となく知的っぽいからであるように見える。あるいは、彼らが科学や数学をやるとき、彼らは白人に認められて、白人の仲間入りを果たすことができるので、彼らは科学や数学をやっているように見える。俺の印象では、大和民族の数学者の大部分は森田真生を嫌っているように見えるが、森田真生の軽薄さと大和民族の科学者や数学者の軽薄さは外部から見るとそれほど変わらない。

論文がない(実体がない)

 論文がない(実体がない):森田真生は自己の査読論文を持たず、研究者としての実体を持っていない。

 森田真生は自己の査読論文を持たず、研究者としての実体を持っていない。大和民族の数学者の大部分は森田真生を論文を書いていないことに関して不信感を覚えている。けれども、この研究者としての実体のなさは大学に所属している学者にも言える。

例えば、三浦瑠璃や木村草太といった自称学者もまともな英語査読論文を持っていない。にも関わらず、彼らは教授や准教授になっていて、彼らは学者や研究者として扱われてきた。この種の土壌は森田真生のような存在を生み出すだろう。

俺の印象では、森田真生は「大学には、論文を書いてないのに、学者を名乗っている人間が多く存在する。だから、俺が研究者を名乗るとしても、お互い様であるだろう」と感じているように思える。この種の「肩書きのみ実体なし」の人々は大和民族的であるように見える。 

大和民族

誤認識

 誤認識:大和民族は誤認識を繰り返すので、学者や研究者でない存在を研究者や学者と認識する。

 大和民族は誤認識を繰り返すので、学者や研究者でない存在を研究者や学者と認識する。普通に認識できれば、俺らは自己の論文を持たない対象を学者や研究者と認識しないだろう。けれども、大和民族は自己の認識を持っていないので、彼らは森田真生と研究者として誤認識する。

この誤認識は三浦瑠璃や木村草太にも応用される。彼らはまともな査読論文を持っていないのに、彼らは学者や研究者として扱われている。森田真生が自称研究者になるのは、この種の土壌の結果であるだろう。

善悪及び人生論と学問の混同

 善悪及び人生論と学問の混同:大和民族は善悪や人生論を学問を装って展開したり、学問を説教や政治活動の道具として悪用する。

 大和民族は善悪や人生論を学問を装って展開したり、学問を説教や政治活動の道具として悪用する。言い換えると、彼らは善悪や人生論や説教を学問から分離させることができない。彼ら自身が自他境界が曖昧であるように、彼らの善悪と学問の境界もまた曖昧である。