菊池誠は大阪大学における理論物理学者であってきた。彼は契約相手を馬鹿やトンデモと侮辱してきた。以下では、俺は菊池誠の異常性を提示するつもりである。俺は医者でないが、素人感覚としても、大和民族の科学者や数学者は普通でなく、その一部は本当に病的であるように感じる。
御用学者
東日本大震災に関して、菊池誠は御用学者と呼ばれた。その行為に関して、菊池誠はヒステリックに叫んで怒ってきた。以下で、俺は菊池誠の行為に関する俺の違和感を提示する。
御用学者wikiとその不公平
俺の認識:菊池誠の怒りは不公平で非相互的である。
不公平性
菊池誠は御用学者と呼ばれて、彼はヒステリックに怒ってきた。けれども、彼の怒りは不公平である。なぜなら、彼は他人をトンデモやデマや馬鹿や阿呆とレッテルを貼り、人種的、民族的に侮辱してきた。
菊池誠は彼自身は他人を侮辱しても良いが、他人によって侮辱されるのは悪い(レッドカード)であると主張している。もし菊池誠が他人をトンデモと侮辱するならば、菊池誠が「御用学者」と侮辱されることは別に不公平でなく、相互的である。
菊池誠の動物的な感情とは、「僕は他人を馬鹿って言っても良いが、他人は僕を馬鹿というのは駄目」と言っているようなものである。他人をトンデモと侮辱してきた失礼な動物が「御用学者」と呼ばれるのは自然であり、予想できたことである。
ソサエティ的思考の欠如
たとえ俺が上記を提示するとしても、菊池誠を含む科学者や数学者は上記の公平性や相互性を認識できない。なぜなら、彼らはテクノロジー思考を持っているが、ソサエティ思考を持っていない。ソサエティにおける公平性や相互性は自己のソサエティから導かれる。
もし菊池誠が自己のソサエティを形成できないならば、菊池誠は公平性や相互性を認識できない。なぜなら、相互性や公平性はソサエティに関する概念である。一般的に、大和民族の科学者や数学者は他人のデマを許せないが、自分が撒き散らすデマには甘い。
大和民族の科学者や数学者は他人の嘘を許せないが、自分の嘘には甘い。これはソサエティ思考の欠如の結果である、彼らはソサエティそれ自体を認識できない。だから、彼らは彼らの不公平な状態の何が悪いのかを判断できないように見える。
菊池誠の発言が正当な場合
もし菊池誠が他人(契約相手)を「トンデモ」や「馬鹿」と侮辱してこなかったならば、彼の怒りは正当である。しかし、御用学者wikiによる菊池誠への侮辱は相互的であり、不公平でない。従って、御用学者wikiの存在は悪でない。
菊池誠は発達障害(アスペルガー)か?
俺の認識:菊池誠の不公平さは少し病的に見える。
俺が菊池誠の “ヒステリック” な態度や “糾弾体質” 、”差別という単語が好き” な振る舞いを見ると、俺は菊池誠は何らかの精神病や知的障害を抱えているように見える(科学者や数学者に多い類型)。
他人の嘘やデマは許せない(でも自分は良い)
菊池誠はデマやトンデモを白人が授けた科学や数学で糾弾してきた。けれども、彼の呟きを見ると、彼自身の発言も正確でない。上記では、ADHDは他人のミスには厳しいが、自分のミスには無関心であることが指摘されている。
例えば、菊池誠は「メルトダウンじゃないだす」と呟いて、批判されてきた。その他にも、菊池誠は財務省に関する陰謀論のような呟きを投下している。部外者から見ると、どっちもどっちである。
しかし、菊池は他人のデマや嘘のみを許せないように見える。菊池誠のこの他人のデマを許せないという心情は “非常に病的” であるように見える。日常的には、他人のデマを絶対に許さないという謎の情熱は「うわっ、ちょっと病気っぽい」と感じる。でも、自分のデマはなぜか考慮されない。
差別とアスペ
公平性や相互性の病的な欠如は、差別という単語にも観察される。菊池誠は他人を差別主義者と呼び人種的に侮辱してきた。けれども、菊池誠は彼自身を「アスペ」と呼ぶことを絶対に許さない。
言い換えると、菊池誠は「僕は他人を差別主義者といっても良いが、他人は菊池をアスペと呼んでは駄目。なぜなら、差別だから。」と感じている。正常な人間は他人を差別主義者と侮辱しないし、当時に、他人を「アスペ」と呼ばない。
けれども、病的な異常者は自分は差別といっても良いが、他人が自分をアスペと呼ぶことは許さないと感じるらしい。菊池誠がその異常者である。試しに、誰かが菊池を「アスペ」と呼んでみれば良い。その時、彼はヒステリックにこう返すだろう。
「差別だっ!」
なぜ菊池誠は不公平か?
俺の憶測:菊池誠は自己それ自体をうまく認識できないので、彼の発言も行為も不公平である。
菊池誠は自己それ自体をうまく認識していない。だから、菊池誠の世界には、自己が存在しない。その結果、菊池誠の世界には、他人をトンデモと侮辱する自己(=菊池誠自身)が存在しない。当然、菊池誠の世界には、他人に御用学者と呼ばれる自己も存在しない。
けれども、菊池誠は他者からの圧迫感や侮辱による不安や不快感をなんとなく感じることができる。菊池誠は他人が彼を御用学者と呼ぶ時、菊池誠は不快感を覚えて差別と叫ぶ。しかし、菊池誠は御用学者と侮辱される自己もうまく認識していない。
菊池誠は自己をうまく認識しないので、彼は他者から圧迫感や不安を感じる行為や発言のみに反応する。その結果、菊池誠は自分は他人を侮辱するが、他人からの侮辱は許さないという不公平な状態が生じる。なぜなら、菊池誠は自分が他人を侮辱するとしても、彼は圧迫感や不安を感じない。
反ワクチン批判(反・反ワクチン)
菊池誠(キクマコ)は反ワクチン運動を批判している。俺が菊池誠(キクマコ)の反・反ワクチン運動を見るとき、俺は菊池誠(キクマコ)は発達障害やアスペルガーでないかと疑う。以下では、俺は菊池誠(キクマコ)の行為に関する問題点を提示する。
菊池誠(キクマコ)の心理
マウンティング(馬乗り):菊池誠(キクマコ)は馬鹿な反ワクチンを推進する人間を学問を装い、科学で殴って、スカッと憂さ晴らししたいように見える。
菊池誠(キクマコ)は馬鹿な反ワクチンを推進する人間を科学で殴って、スカッと憂さ晴らししたいように見える。言い換えると、菊池誠(キクマコ)は馬鹿な人間を科学や社会活動を装って、いじめたい、殴りたいだけである。この種の行為は菊池誠(キクマコ)だけでなく、ゲーデルの不完全性定理に関する間違いの糾弾や掛け算に関する侮辱や中傷と同じである。
菊池誠(キクマコ)の悪質性は他者に対する単なる侮辱や中傷を科学と言う学問を装っていることである。俺が菊池誠(キクマコ)の人間離れした卑怯さや卑しさを見るとき、俺は菊池誠(キクマコ)は正常な人間でなく、よく言えば発達障害、悪く言えば知的障害が入っているように感じる。
菊池誠(キクマコ)はよりより社会を形成したいのでなく、他人を否定することによって自分を認めさせたい。この種の行為は一種の動物的な発情行為(性欲)に似ている。菊池誠(キクマコ)が正常に見えないのはこの種の性欲の発露を彼自身で制御できないことである。
概ね同意ですね。 強いて言うなら、アスペルガー疾患者は価値観が健常人と根本的に違うというより、価値観そのものがない と言っていいと思います。 だからこその、他人のj行動を真似るとか、あるいは追い詰められたときのおうむ返しとか、言動の一貫性のなさ、 口先だけの大言壮語ばかりで行動が伴わない、などがあるんだと思います。 「他人の気持ちがわからない、空気が読めない」などといったら、別に何か確固たる信念に基づいた自分というものが あるのだとうっかり勘違いしてしまいそうですが、実はそういうことじゃないということですね。 あるのは単に、他人を否定することによって自分を認めさせたいというある種の本能的な我欲だけでしょうね。
https://okwave.jp/qa/q6859269.html
行為
行為:菊池誠(キクマコ)は自己の実現したい社会系統を彼自身の言葉で表現しないが、苦情や難癖を延々と他人につけてなんとかしようとする。
菊池誠(キクマコ)は自己の実現したい社会系統を彼自身の言葉で表現しないが、苦情や難癖を延々と他人につけてなんとかしようとする。言い換えると、菊池誠(キクマコ)は同じ大和民族に社会を作って貰って、それに苦情をつけて、菊池誠(キクマコ)が望む社会を形成しようとする。菊池誠(キクマコ)は彼自身の社会を彼自身で形成するつもりがないので、彼は自己の宗教を公的な場所で表現しようとしない。
上記の掛け算の順序も反ワクチンも社会的な問題である。俺ら自身が自己の実現したい社会の系統を持っているからこそ、俺らは算数教育や反ワクチンに関する興味を持っている。けれども、菊池誠(キクマコ)自身が自己の実現したい社会を持っていないので、菊池誠(キクマコ)の算数教育や反ワクチンに関する言動それ自体は時間の無駄である。
奇妙な振る舞い
以下では、俺らは大阪大学の菊池誠の病的な思考を提示する。個人的には、俺は大阪大学の菊池誠は発達障害や知的障害を持っていると認識している。繰り返すが、俺は科学者や数学者を先生と呼ぶことに反対である。
病的な場合その1
テリー・ライリー、日本に滞在してるだけじゃなくて、移住したのか!びっくり
https://twitter.com/kikumaco/status/1305754910919598082
テリー・ライリー(おそらく白人)が日本列島へと移住した。この白人の行為に対して、菊池誠はこの移住を歓迎して、喜んでいるように思える。しかし、正常な人間は白人がモンゴロイド人種の領域に住むことを必ずしも歓迎しない。
なぜなら、近代におけるアメリカ大陸のアメリカ先住民の悲劇を考慮するとき、俺らはその移住してきた白人によって虐殺されるかもしれない。正常なモンゴロイド人種はこのように思考する。そして、その正常なモンゴロイド人種は「俺らはテリー・ライリーを歓迎しない」とつぶやく。
すると、菊池誠はアスペルガのヒステリを発して、「差別だ!差別だよ、差別だ!」と不必要に騒ぎ始める。菊池誠は差別という単語を悪用して、日本列島へと白人の不自然な侵入への防御を妨害し始める。菊池誠は大和民族がアメリカ大陸の白人による虐殺の悲劇を繰り返さないように行動することをなぜか妨害し始める。
その結果
もし白人が日本列島へと不自然に移動し続けるならば、その時、白人が日本列島の原住民である大和民族を虐殺し始めるだろう。そして、その虐殺の原因には、上記のような菊池誠の妨害行為も当然存在する。なぜなら、菊池誠は白人の侵入を防止する大和民族の行為を差別と糾弾して、妨害した。
菊池誠の行為は、動物愛護団体が「畑に侵入するイノシシやクマを防御する村人の行為」を “動物虐待者” と呼んで侮辱する行為に似ている。その結果、畑は害獣に荒らされて、人々が餓死する。けれども、この種の動物愛護団体は彼らの妨害行為の責任を一切とらない。
一般的に、ホモ・サピエンスの不自然な移動は虐殺をしばしば伴ってきた。正常なホモ・サピエンスが彼らの歴史から学び警戒するのは自然な行為である。しかし、菊池誠は危機察知能力の欠如とマウンティング癖のために、他人の危機管理を妨害して、運動競技をめちゃくちゃにする。
虐殺の後の思考
もし日本列島へと侵入した白人が日本列島の上の大和民族を虐殺したならば、正常な人間はその白人と菊池誠の両方を批判する。前者は虐殺行為に関して、後者は手引きと妨害行為に関して批判される。けれども、菊池誠は発達障害や知的障害のためか、彼は日本人を虐殺した白人のみを批判して、自分は何も悪くないと感じる。
菊池誠は他人の行為を妨害して、大規模な交通事故を間接的に発生させた。にも関わらず、彼は自分は何も悪くないと感じている。菊池誠は白人のみが悪いと感じる。なぜなら、菊池誠は「管理行為」や「危機管理」それ自体を全く認識していない。
だからこそ、菊池誠は異人種が日本列島に入ってくることを容易に歓迎して、表面的には寛容な自分を演じる。なぜなら、菊池誠はたとえ手引きした白人が日本人を虐殺するとしても、自分は悪くなく、殺した白人のみが悪いと感じている。菊池誠には、悲劇を防止するために、白人それ自体の侵入を防止するという観点が完全に抜け落ちている。彼は本当に無防備であり、管理という発想がない。
菊池誠の父
父は園芸学者で弘前大学名誉教授の菊池卓郎[11]。伯父(父の兄)の菊池秀夫は三井鉱山常務、河北新報取締役、東海大学名誉教授[12]。祖父は園芸学者で京都大学園芸学教室の初代の教授だった菊池秋雄[13]。祖母(秋雄の妻)のたけは、河北新報創業者一力健治郎の娘。曽祖父の菊池楯衛は、「青森りんごの始祖」と呼ばれる人物[14]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/菊池秋雄
俺は大阪大学の菊池誠は発達障害やアスペルガー、その他の精神疾患や知的障害を持っているのでないかと疑っている。実際、理論物理学者や数学者は普通でなく、知的障害を持っているように見える。
俺が彼のwikipediaを見て、俺は菊池の振る舞いの異常性に納得した。なぜなら、菊池誠は学者の家系であった。以下では、俺は「大阪大学の菊池誠の父が園芸学者の菊池卓郎で祖父が菊池 秋雄であった」ことの意味を提示する。
また、以下では、テクノロジー的な思考でなく、ソサエティ的な思考を提示する。
家系が学者の家系であることの意味
菊池誠の家系が学者の家系であることの意味:菊池誠やその子供は何らかの知的障害や精神疾患を持っていてもおかしくない。
その意味とは、「菊池誠やその子供は何らかの知的障害や精神疾患を持っているかもしれいない」ことである。大和民族のソサエティでは、学者やその家系は先生であり、”スゴイ家系” であると認識されている。しかし、学者の家系とは、病気の家系でもある。
一般的に、未開社会ではダウン症のような病気やサヴァン症候群?のような特殊な才能を持つ人々は「神様の贈り物」として未開人によって崇拝されてきた。実際、インドでは、エレファントマンが多神教における神様として崇拝されているらしい。菊池誠やその家系が「先生」と呼ばれるのはこの種の延長線上である。
上記でも述べたが、アインシュタインの次男は統合失調症を患ったらしい。菊池の家系が学者の家系であることがその統合失調症の家系であることに似ている。東洋人は礼の文明を持つので、その事実を直接的には指摘しないけれども。
菊池の行為
twitterを見ると、菊池は契約相手である日本国民と全く会話できないでいる。そして、彼は差別という単語を好み、他人をドイツ人のように糾弾する。加えて、彼は自己の感情を制御できず、本当にアスペのようなヒステリを発してしまう。
俺が菊池の行為と彼が理論物理に長けていることを鑑みると、俺は彼はなんらかの知的障害や精神疾患を本当に持っているのでないかと疑う(物理学者や数学者に多い類型)。この種の病的な人間が先生と呼ばれて、神様のように崇拝されてきたことは、大和民族のソサエティの未開性と未熟さを暗示している。
実際、菊池や学者自身も先生と呼ばれて、彼らは勘違いして、自分を神様のように感じている。そして、彼らは彼ら自身が人類を科学で救っているという英雄的な妄想(神様的な妄想)を持っている。「先生」という呼び名や「科学は人類の役に立つ」という音は菊池らを神様か何かであると実際に勘違いさせているように見える。
学者は先生か?〜障害者を神様と呼ぶこと〜
俺の認識:障害者が神様からの贈り物でないように、学者は先生でない。
障害者が神様からの贈り物でないように、学者は先生でない。障害者に必要なのは、医療テクノロジーであり、神様として崇拝することでない。同様に、学者の一部に必要なのは、医療テクノロジーであり、先生として崇拝することでない。
大和民族側も学者を先生と呼ぶことを止める必要がある。しかし、インドがそうであるように、エレファントマンは民衆から神様の贈り物として崇拝されている。同様に、日本列島では、学者は民衆から先生として崇拝されている。
本来であれば、先生とは孔子や孟子のような宗教的な指導者であり、菊池誠でない。実際、彼にはテクノロジーが存在するが、ソサエティが存在しない。だからこそ、彼は他人と会話できない。
HPVワクチン
菊池誠の反ワクチン運動には、強烈な問題点が存在する。以下で、俺は菊池誠の反ワクチン運動の問題点を提示する。彼は反面教師として非常に優秀である。
俺の印象では、HPVワクチンのまともな推進者は菊池誠の反ワクチン運動を非常に嫌っていて、彼らは菊池誠を反ワクチン運動から遠ざけたいように思える。実際、菊池が発言すればするほど、人々はHPVワクチンに関する強烈な違和感を覚える。
目的
菊池誠の反ワクチン運動の目的 菊池誠は他人を科学で論破して、科学でマウンティングしたい。
菊池誠は他人を科学で論破して、科学でマウンティングしたい。人々は彼の行為に強烈な不快感を覚えていて、その不快感は5chの動物虐待版に対する不快感と同じである。白人が作った科学で、馬鹿な人間を論破したい、マウンティングしたい。
だから、菊池は反ワクチン運動を実行しているように見える。彼はよりよい人間社会を形成したいのではなく、彼らは人間社会における社会運動を通じて、彼は馬鹿な他人にマウンティングしたい。真理を主張して、ちやほやされたい。
外部から見ると、菊池の行為はキャバクラ的な気持ち悪さといじめと動物虐待に対する不快感が入り混じっているので、とにかく不愉快である。彼はまともな社会運動を実行できていないが、その自覚を持っていない。
問題点
菊池誠の反ワクチン運動の問題点 菊池誠はまともな社会運動を実行できないように見える。
菊池誠はまともな社会運動を実行できないように見える。菊池は知識があれば、反ワクチン運動を実行できるように感じている。しかし、社会活動には、宗教的な善悪や性規範や会話作法が要求される。にも関わらず、彼は何も持たずに、裸のままで社会運動を実行しようとする。
彼の行為は非常に無謀である。大和民族の学者は文明や宗教を軽視しすぎるので、彼らは知識を持っていても、彼らは人間社会という運動競技でうまく競技できない。まるで、彼らはキモオタがサッカーに詳しいが、サッカーの運動競技を実際に競技できな畔、浮いているようである。あるいは、彼らは官能的な映画には詳しいが、彼らは性行為を実際に実演できないような状態である。人間社会という競技における菊池の行為ははちゃめちゃであり、異常者の行為に近い。
菊池誠は社会運動の中で真理を主張しようとする。しかし、たとえ彼が真理を主張するとしても、彼は彼の目的を達成できないだろう。さらに悪いことに、菊池は社会活動における目的をきちんと定義できないので、彼の目的は論破とマウンティングとちやほやになっている。社会活動では、人々は活動の目的を設定した後、彼らは目的を達するような行為を競技する必要がある。その後、彼らは目的を達成する。これはワクチンの運動も同様である。菊池は社会運動における競技を実演する必要があるのであり、彼は真理を主張する必要はない。彼の行為はサッカーの試合に迷い込んだ犬や猫程度にはめちゃくちゃである。見ているこっちが恥ずかしくなる。
話し方
私は、ドイツ人は明らかにアスペルガー的性格の典型だと思っていて、これがここでお話されているようなドイツおよびドイツ人のネガティヴな面を説明するキーなのではないかと思っています。
むしろ深く考えれば考えるほどアスペルガーとはドイツ人の性格そのものを意味しているとさえ思えてくるんですが、この点どう思われますか?
アスペルガーは基本的に遺伝的な疾患ですので、これが社会との相関関係でゲルマン系において特に多く発生したと考えるのは、科学的に見てもおかしくはないんですが… 実はドイツではアスペルガーが診断されるのはかなり稀なんですが、それは確実にこの性格特徴自体がアスペルガー的社会そのものに隠れて見えにくいからだと思うんです。
https://dokurock.exblog.jp/29686592/
実体のない単語を好む
菊池誠は差別という単語を非常に好み、その単語を頻繁に使ってきた。例えば、菊池は福島に対する差別という単語を使用してきた。しかし、この差別という単語は悪魔や魔女と同様に幽霊的な単語である。
菊池は福島に対する差別が名誉毀損であるか侮辱であるか失礼であるかを明らかにしない。菊池の本音は相手を黙らせたい、呪いを相手にかけて黙らせたい、他人よりも優位に立ちたい、他人を黙らせて自分の想い通りに動かしたい、正義感を発動させて他人を断罪する快感を得たいである。西側の白人、特にドイツ人は他人を差別主義者と糾弾することを好んできた。
白人社会では、他人を差別主義者や排外主義と呼んで糾弾することが流行した。俺の印象によると、この種の性質の原因は白人の発達障害やアスペルガー気質である。発達障害やアスペルガーの気質が強ければ強いほど、他人を差別主義者と侮辱して糾弾しようとする。
科学や数学
菊池誠は科学や数学という単語を使用してきた。そして、菊池は科学を馬鹿にするなという表現を頻繁に使用してきた。日本人は菊池は科学に対する批判を菊池に対する批判に意図的に言い換えていると審判してきた。
つまり、菊池は彼自身を批判されたくないので、菊池は彼に対する批判を科学に対する批判に置き換えた。そうして、菊池は相手を黙らせて、支配欲と性的な快感を得ようとしてきた。菊池の話し方はとにかく不誠実で卑しい。
レッテル貼りと糾弾体質とヒステリ
菊池は他人を差別主義やトンデモやカルトとレッテル貼りしてきた。白人は他人を差別主義者や排外主義と侮辱・糾弾してきた。この種の性質はアスペルガーや発達障害の性質に関係して異様に見える。実際、菊池は相手をレッテル貼りする子を異常に好む。トンデモ、差別、カルトなどがレッテルである。俺が菊池を見るとき、俺は白人の行為は菊池の行為にそっくりであると審判した。
ドイツ人は他人を糾弾することを異常に好む。戦中はユダヤ教徒やスラブ民族、戦後はナチスや差別主義者を糾弾した。ドイツ人の糾弾気質はアスペルガーや発達障害由来である。菊池誠も同じである。彼は福島に対する差別や放射のデマに関する人権侵害という単語を好む。菊池は福島の人々のことなど何も考えていない。菊池は他人を糾弾したいだけである。日本人は菊池の卑しい人間離れした何かを見抜いている。だから、彼らは菊池の行為に5chの動物虐待の板のような気持ち悪さを覚える。
ドイツ人はヒステリ体質である。このヒステリは発達障害やアスペ のヒステリや衝動性に似ている。菊池も契約相手に批判されると、発達障害やアスペ っぽい、ヒステリを起こして、他人をナチスやヒトラーやルイセンコやヒュパティアをオタクみたいな早口で引用する。ドイツ人も菊池も一度キーッとなると、彼らは彼らの動物的衝動を抑えられない。彼らはもはや彼ら自身が何をしているかすら審判できない。菊池は契約相手に対して、無自覚的なヒステリを起こしてきた。しかし、そんなことをやったら、契約が破棄されるのは当然である。
応答
ドイツ人も菊池も打たれ弱い。発達障害やアスペ は糾弾体質であり、他人を糾弾する。しかし、彼らは糾弾される側になると、彼らは打たれ弱くなる。 菊池は批判されると、すぐに騒ぎ喚く。菊池は騒いで喚いて相手が黙ることを暗に期待する。相手が黙るとき、菊池は安心感を覚えて、喚き騒ぐのをやめる。
健常者がアスペに状況を一生懸命わかりやすく説明しても、アスペは理解できないし、意見を曲げずに屁理屈を返す。口が達者。こっちが強く言えば逆ギレし、怒鳴って癇癪を起こす。
https://okwave.jp/qa/q6859269.html
菊池誠(キクマコ)は左翼やリベラルか?
本音
なぜ菊池は左翼やリベラルを名乗るのだろうか?その理由は以下である。
マウンティングとちやほやされたい
菊池は白人様の価値観や視点、考えを悪用して、日本人にマウンティングしたい。自称スペイン系フィリピン人や西側白人との中間種は彼自身の遺伝子や白人の価値観で、日本人を人種的に侮辱して、マウンティングするような行為である。実際、この種の中間種やフィリピン人は存在する。
結局、菊池の行為はキャバクラ的な政治と同じである。キャバクラで、美人なキャバ嬢にマウンティングして、説教して、気持ちよくなる。彼の政治活動はこんな感じである。先生とおだてられて、気分良くなって、ハッピーになって終わり。
白人になりたい、認められたい
菊池の政治活動の目的とは、彼は白人になって、白人によって認められることである。これは大和民族の雌が白人と結婚した後、この種の動物がなぜか色付きを人種的に侮辱する行為に似ている。この種の動物は白人と結婚すると、それらは白人になったような気分に陥り、色付きの同胞を見下す。
菊池も同じであり、彼は自己を色付き(モンゴロイド人)と認識できない。彼が白人の思想や価値観を掲げる時、彼は白人になった気分になる。その時、彼は彼自身が醜いモンゴロイド人であることから、逃避できて、彼は気持ちの良い気分になれる。加えて、彼は白人によって褒められて、認められる。白人気分と白人に愛される、すなわち一石二鳥である。
対峙回避と責任回避
菊池は彼自身を左翼やリベラルと呼ぶ。なぜなら、その時、彼は誰とも対峙しなくて良い。彼にとって、左翼やリベラルとは、誰とも対峙しなくてもよい思想である。左翼やリベラルをやって綺麗事を主張すれば、誰とも対峙しなくて済むので、彼は左翼やリベラルをやっている。
彼は白人と対峙したくないので、彼は白人と同じ思想、つまり左翼やリベラルを名乗る。加えて、彼は朝鮮人や中国人とも対峙したくないので、彼は彼自身を左翼と呼んで、中国人や朝鮮人に優しくして、彼らとの対峙を回避しようとする。菊池は人間社会における社会形成や他者との対峙を日本人に押し付けたい。右翼的な白人や危険な朝鮮人との対峙は右翼や保守の日本人にやらせれば良い。彼はこう考えている。
左翼やリベラルをやっていれば、彼は歴史的な義務や責任を負わなくて良い。彼はこう考える。実際、左翼やリベラルは白人の考えであり、たとえ菊池が左翼やリベラルを実行することにより、日本人が死ぬとしても、彼はその責任を負わなくて良い。彼は上記のように考える。なぜなら、菊池は白人の考えを引用しただけであり、彼は何も悪くない。彼は何も知らない。悪いのは白人。彼の心理はこんな感じである。
政治活動と善悪とその正当性
以下で、俺は政治活動における善悪とその正当性を提示する。大和民族の学者は土人や未開人であるので、彼らは人間社会を形成できない。政治活動は人間社会における一種の競技に等しい。彼らは政治活動という競技を実行できない。
政治活動における善悪
政治活動に限らず、人間が社会における行為を実行するとき、人間はその行為の善悪を考えるする必要がある。これは運動競技を見れば、容易にわかるだろう。サッカー選手が運動競技を実行する時、彼らはハンド行為が悪であると判断する必要がある。
これは政治活動も同じである。西洋社会では、西洋社会に特有の善悪が存在して、その善悪はキリスト教由来である。彼らはキリスト教の善悪に沿って政治活動を実行してきた。一方、政治活動における菊池誠の行為の善悪は何であるのか?菊池は彼の行為の善悪を持っていない。悪いことに、彼は善悪が何かを認識できない。
彼は善悪を理解できないからこそ、彼はキリスト教徒でないのに、彼は左翼やリベラルをやっている。左翼的な行為の善悪やリベラル的な行為の善悪は当然、キリスト教由来である。だから、彼はその善悪に沿って政治活動を実行すべきでない、もし彼がキリスト教徒でないならば。彼の行為は、まるで卓球選手がサッカーのレッドカードに沿って競技するような行為である。
政治活動における善悪の正当性
善悪には、正当性が存在する必要がある。例えば、ある白人がある行為を悪と判断する。その時、非白人はなぜその行為が悪であるかという疑問を当然持つ。
この時、俺らは善悪の正当性を人間に提示する必要がある。例えば、なぜ差別が西洋では悪であるのか、なぜなら、差別は罪な行為である。だから、差別は悪である。差別という悪はキリスト教的な罪の概念によって正当化されている。
左翼的な行為やリベラル的な行為の善悪の正当性は、キリスト教的な罪や彼らの創造主によって与えられている。しかし、菊池は政治活動における行為の善悪も正当性も認識できない。その結果、彼らの行為は無価値であってきた。
菊池誠は契約(約束)とお金の概念を認識できるか?
俺は菊池誠は他者との契約(約束)それ自体とお金の概念を認識できないホモ・サピエンスであると審判する。なぜなら、彼は自己の宗教や文明を持たないので、彼は宗教や文明が与える契約観(約束観)を持っていない。その結果、菊池は日本国民や学生を彼の契約相手と認識できない。
この状態は悪い(レッドカード)。なぜなら、この時、彼は損害を契約相手に与える。悪いことに、菊池は契約だけでなく、損害も損害に対する埋め合わせも認識できない。そのため、彼は損害に対する埋め合わせを実行しようとしない。さらに悪いことに、彼は刑罰も認識できないので、損害に対する刑罰を「学問の自由の侵害」などを喚いて、彼のヒステリで必死に回避しようとする。
以下で、俺らは菊池誠の契約観(約束観)を見てみよう。その時、俺らは知識でなく、物事の意味を重視する。俺は大和民族の学者は非常識や世間知らずでなく、異常者であると審判する。
菊池誠と契約
俺の認識 菊池誠は契約(約束)それ自体とお金の概念を認識できないホモ・サピエンスである。
以下で、俺らは菊池の呟きを見よう。俺らが彼の言語的な反応の奇妙さを見るとき、俺らは彼は契約の概念もお金の概念も認識できないホモ・サピエンスであると感じるだろう。
1節 菊池の呟き
上記では、菊池は「中国は〜たくさんのお金を出している」と呟いた。俺は彼の「出している」という表現に違和感を覚えた。なぜなら、菊池は借りたお金を返す義務やお金と(知的)労働に関する義務を本能的に避けている。中国政府も日本政府(日本国民)もお金を菊池誠にあげているわけでない。だから、菊池はお金以上の対価を中国政府や日本国民に提示する必要がある。
菊池は「優秀な研究者を日本に引き止められなかった日本の科学技術行政のあり方を問うべき」と呟いた。しかし、大和民族の学者は学問の自由と大学の自治を主張してきたので、現在の状況の責任の所在は大学にあり、行政に存在しない。
大和民族の学者は労働性があっても、社会性を持たないので、人間社会における行為の責任の所在を認識できない。彼らは他人を責めるばかりで、責任の所在をきちんと明らかにしようとしない。
2節 菊池の呟きその2
下記を見よう。下記の発言では、菊池誠の異常性が際立っている。俺は沖田の発言は善と判断する。
菊池は引退した後も研究者としてやっていきたい。だから、彼は中国への研究者の流出を煽って、不吉な予言を繰り出して、自分の想い通りに日本人を動かそうとする。正常な人間は彼の発言は日本国民との金銭的な契約を成立させないだろうと審判する。
乞食やメンヘラの死ぬ死ぬ詐欺のような不快感が彼の発言には存在する。科学者や数学者は国家と国民に依存してきた存在であり、普通の労働者と非常に異なる。もし国家に依存してきた彼らが上記のような発言を繰り返すならば、国民は大学や研究者(理論系)の存在を必要としない。
菊池は「できません」と呟いたが、彼の発言は意味不明である。彼の発言には、主語が存在しないので、誰ができないのかがわからない。加えて、できないの意味も不明瞭である。できないが能力なのか可能なのかすら不明である。人為的な現象であるならば、俺らはそれを変更できるので、「できる」。
要するに、菊池は「誓約したくない」ことを「できない」と自然現象のように誤魔化している。
俺は上記の会話を理解できない。なぜ菊池はいきなり個人の自由を提示したのかが不明である。彼は知ってる単語を意味もわからず、とりあえず提示して、相手を黙らせようとしているように見える。
また、菊池は束縛できないと発言したが、もし日本国民が誓約を望むならば、科学者と日本国民の契約は成立するだろう。誓約をまるで自然現象のように語ることは誠実でない。
要するに、菊池誠は誓約などの契約は嫌である。なぜなら、彼らは契約に伴う義務が嫌。なぜなら、彼らは義務に不安を感じる。彼らは不安を嫌がるので、何も約束したくない。でもお金は欲しい。
沖田の発言は常識的である。菊池は日本国民に金銭的に依存して、彼は日本国民からお金を借りてきた。もし彼が中国に行って将来的に日本国民に損害を与えるような研究を実行するならば、その行為は損害を日本国民に与える。
もしある人間が損害を認識できるならば、一般的に、人間は将来的な損害を回避しようとする。その結果、日本国民は中国で将来的に研究するだろう研究者を将来的な損害とみなす。だから、彼らはその損害を予防する契約を提示する。その契約が結ばれないならば、日本国民はいかなる約束を菊池と結ばないだろう。
菊池は損害や約束それ自体を認識できない。その結果、彼はなぜ誓約が必要かがわかっていない。だからこそ、彼は「個人の自由」という意味不明な単語を唐突に提示する。例えば、菊池はx円を借りて、x+a円を対価を提示した。しかし、菊池が中国で研究した後、その研究が軍事的に応用されて、y円の損害を与えた。y>x+a。この時、日本国民は彼らの宗教や文明が定める損害を回避するので、日本国民は菊池と約束を結ぼうとしない。
人々は契約相手に損害を与えるなと言っている。にも関わらず、菊池は個人の自由と返答する。菊池誠は契約相手に対する損害それ自体を認識できないので、この種のトンチンカンな発言を繰り返す。
たとえ彼らが中国で研究するとしても、損害を与えないことを示す必要がある。加えて、彼らは大和民族が何を損害としているかを分析する必要がある。菊池は損害が何かも認識できないし、損害を他人に与えるのが良いか、悪いかも判断できない。
菊池は論文を発表したことで、給料分の仕事をしたと自分勝手に思い込んでいる。しかし、菊池はどれくらいのお金を借りて、どの程度の価値の論文を提示したかを契約相手に提示する必要がある。菊池は「研究費をもらったので、論文を書いた。だから、給料分の仕事をした」と思い込んでいる。
彼の発言が成立するためには、彼の論文の評価が必要である。菊池は評価行為も認識できない。また、菊池は「それが嫌なら政府が金を出して引き留めればいいわけ」と呟いた。俺が彼の失礼な発言を見た後、俺は強烈な不快感と憤りを覚えた。彼の発言は契約相手に向けて良い発言でない。彼の発言は無自覚的な乞食や恫喝や脅迫に近い。
契約相手は将来的な損害を回避しようとしている。その感情に対して、菊池は彼が中国で研究して損害を被りたくないならば、契約相手がお金を出すべきと返答している(繰り返すが、お金を出しているわけでない)。この行為は、暴力夫が妻に殴られるのは嫌ならば、お金を出せば良いと迫っている行為に近い。
加えて、彼は妻が夫に殴られるのはお金を出さない妻が悪いと言っている。ちなみに、殴るのが悪いのはその行為が他者に対する損害であるからである。菊池の発言は乞食かつカツアゲ的な発言である。
上記の発言も意味不明である。彼の発言は沖田の発言に対する返信になっていない。沖田は菊池が給料分の仕事をしたと言える根拠はないと発言した。その発言に対して、彼は給料分の仕事ですと返答した。もしそうであるならば、彼はなぜ彼が給料分の仕事をしたかという根拠を示す必要がある。
上記の沖田の発言はおそらく正しい。研究に関係するすべてのお金を含めれば、菊池誠は給料分の仕事をしたと言えないように思える。そもそも、研究者のほとんどや学者のほとんどは不要であるので、彼らは金銭的に負の存在である。
菊池誠は菊池誠を含めた大和民族の学者は不要であり、いなくても困らないことを認識していない。だからこそ、彼は給料分の仕事をしたと錯覚している。その給料はお情けの給料であり、本来であれば、支払われる必要のないお金であった。菊池誠は存在自体が金銭的な損害である。彼は仕事する必要のない無駄な仕事をしてきた。
3節 菊池の呟きその3
俺が上記の発言を見た後、俺はお前がそれをいう立場でないと感じた。なぜなら、大和民族の学者の大部分は本来であれば、不要な存在であり、お金を借りる立場に近い。さらに、日本国民はお金を貸す必要のない存在に、お金を貸してきた。
菊池は自分の置かれてる環境や立場を認識できない。だから、彼はお金を借りる立場、かつ本来であれば不要な存在であるのにも関わらず、上記のような失礼で不愉快な発言を繰り返す。お金を借りる側が「金で簡単に解決できる問題だから、お金を貸せ」と主張するのはおかしい。
上記の発言も異常である。菊池誠は「金と研究環境を用意すれば」と表現している。彼はまるでお金を出さない日本国民が悪いと言っているように見える。俺の会社が潰れたのは、客がお金を出さなかったからと言っているように見える。
菊池は学問の自由や大学の自治を主張している以上、彼は彼のお金と研究環境を彼自身で用意する必要がある。彼の発言を見ると、彼はまるでやってもらう立場、客のように振舞っている。契約相手や交渉相手に、お金をもらって、研究環境を用意してもらって、そして自分は研究のみをしていたい。しかし、彼は契約相手に口を出して欲しくないと感じている。
上記の発言も異常であるが、東京農工大学の田中は異常性を認識できない。まず、田中は契約相手に「あんたら」という失礼な表現を使用している。これは悪い(レッドカード)。
加えて、田中も契約の概念を理解できないので、彼は契約に関する立場を認識できない。彼は職と環境を用意してくださいと客のように振舞っている。しかし、客はどちらかというと日本国民側である。
彼は客に対して、「客(あんたら)が俺らの職と環境を用意しろ」と侮辱している。彼がいうべきは、「田中は研究者として仕事できてきてよかった。日本国民に感謝したい」である。しかし、この種の未開な動物は「感謝」すらできない。彼らは「ありがとう」を言えない。
2章 菊池誠の心理
心理 菊池誠はお金を借りたいと彼自身の言葉で言えない。でも、お金が欲しい。
菊池誠はお金が欲しいと自分の気持ちや感情を表現したくない。なぜなら、彼は彼の発言の責任を負いたくない。だから、彼はお金を出さないと研究者が流出するぞと脅迫して、お金が欲しいと言わずに、日本国民にお金を出させようとしている。
彼は自分の意見を言いたくないが、自分の意見を察して欲しい。だから、彼は不吉な予言を繰り返して、お金が欲しいと言わずに、お金を出させようとする。この種の行為は乞食かつ脅迫行為(脅し)に近い。菊池の幼稚な考えは次である。
菊池「お金を出さないと中国に流出する」→日本国民「大変だ、お金を出さないと!」→研究費の増加→菊池の満足。
もし上記が成立しないならば、菊池はこう考える。彼は彼が真理を主張したのに、日本国民は菊池の真理を聞き入れなかった。だから、日本国民が悪い。なぜなら、日本国民は真理や学問を愛さず、学問を軽視した。だから、俺の考えを理解しなかった契約相手が悪い。彼はこう持っていきたい。
菊池「お金を出さないと中国に流出する」→日本国民がお金を出さない→菊池「俺は真理を主張したのに聞き入れなかった!(だから、日本国民が悪い)」
当然であるが、例え彼がこの種の真理を提示するとしても、彼は契約相手と契約を結べない。それだけでなく、契約相手との「関係」も悪化する。もし契約相手との関係が存在しないならば、彼は契約をそもそも結べない。俺の憶測では、良い印象→関係→契約のように流れる。
菊池は契約だけでなく、関係や印象も認識できない。だから、菊池は例え彼がお金を出さないと中国に流出すると主張するとしても、彼はその発言では、契約相手との契約を結べないことがわからない。つまり、彼の発言では、お金を借りれない。
それだけでなく、彼の失礼な発言は契約相手の印象を悪化させる。その結果、関係も絶たれるので、契約の段階にそもそもいけない。菊池の発言じゃ、菊池の話し方じゃ、お金の貸し借りが成立しない。彼はそれを審判できない。
菊池誠と民主主義
俺が菊池誠の発言を見ると、彼は民主制度の意味を把握できないように思える。おそらく、その理由は彼は管理や統治が何であるか、その意味を把握できなからである。学者の大部分は狩猟民族、良くて情報製造という農耕民族に近く、家畜を扱う牧畜を認識できない。
その結果、彼らは統治、つまり民主制度が何であるかを把握できないのだろう。以下で、俺は法律の意味を提示してみる。俺は知識については知らない。菊池の方が詳しいだろう。
選挙の意味
菊池誠は選挙行為の「意味」を把握できないホモ・サピエンスである。
選挙の意味を把握できないのは菊池誠だけでなく、大和民族の学者のほとんどがそうである。彼らは「責任者」を選挙を通じて選択していると勘違いしているように見える。政治家は彼らの責任者でなく、統治者であり、その統治者は菊池の行為を定める法律(プログラム)を作る。
しかし、菊池は政治家を彼自身の統治者と認識できない。そのため、彼は彼の統治者を選挙で選択した後、彼はその統治者に学問や科学を悪用して、統治者にマウンティングしようとする。この行為は企業経営者が政治家にお金で干渉して、政治を腐敗させるような行為である。
菊池は選挙行為の意味を把握できないので、彼は責任者を選挙で選択してくれると感じている。そして、その責任者は有権者、または主権者のことを聞くべきである。彼は政治家をこのように考えている。だからこそ、彼は彼自身の組織を形成せずに、彼は彼なりのくだらない真理を電網世界で述べてきた。
法律の意味
菊池誠は法律の「意味」を把握できない。
大和民族の学者は法律の意味を把握できない。彼らは法律を「命令」か何かを勘違いしている。しかし、法律は人為的な自然法則に近く、その法則は国民の行為の善悪を定める。そして、その善悪には、正当性が必要である。
西洋社会では、善悪はキリスト教によって与えられる。その善悪の正当性はキリスト教的な罪の概念である。最終的な正当性は彼らの創造主、正確には創造主の意志である。現実的には、民主制度における法律の善悪の正当性は人間の自由意志による統治者の選択によって与えられる。人間の本質は自由意志であるので、その本質による行為もまた正当性を持つ。正当な行為から導かれた法律もまた正当性を持つ。
契約の意味
菊池誠は契約の「意味」を把握できない。
菊池誠は契約、つまり約束それ自体を認識できない。一般的に、宗教が約束が何であるかを与える。菊池は無宗教であるので、彼は約束の意味を把握できない。
大和民族の学者は彼らの統治者(責任者でない)を選挙で選択した後、彼らは統治者による法律、つまり菊池の行為の善悪の決定に従おうとしない。彼らは屁理屈や科学を持ち出して、彼らは統治者や彼らによる法律をひっくり返そうとする。この種の行為はフィリピン人に近く、彼らもまた借りたお金を屁理屈で返そうとしない。
菊池は彼の統治者を選挙で選択して、統治者に国民との契約を守らせようとする。守らない場合、彼はヒステリを引き起こす。けれども、菊池自身は彼の統治者との契約を一切守ろうとせずに、彼は統治者による統治に一切従おうとしない。そのため、俺らは恐怖と痛みを菊池に行使する必要が生じてきてしまう。