俺は文それ自体を幾何学的に、かつ感覚的に把握する。以下では、俺は俺語における文に対する感覚を提示するつもりである。
文(列車式)
俺は文に対する俺の感覚を左、または右に置く。左では、文はメタ的である。一方、右では、文は主語及び動詞と交換される。俺は文それ自体を列車と例える。≡は結合記号である。単語は列車の貨物に対応する。
俺は左を使用する。感覚的に考えると、俺が文をある単語で交換可能なものとして置き換えるのは奇妙である。現実的には、俺は名札を人間と交換することができない。この宗教では、俺は文を列車に対するメタ的な単語と認識する。それぞれの[]をカードに対応させて、子供達に文に対する感覚を育ませる。
それぞれの単語は対象それ自体に対応する。その単語は一つの列車や単語列を作る。その後、俺は文(bunnalx or sentencealx)という単語をその列車や単語列にメタ的に対応させる。なお、現象それ自体は文でなく、[俺]≡[動け]に対応する主語と運動それ自体である。≡は対象を機械代入する操作に対応する。