チンギス・カン(ハン)のY染色体ハプログループはC2bであったか?

東洋小人種
https://ja.wikipedia.org/wiki/チンギス・カン#/media/ファイル:YuanEmperorAlbumGenghisPortrait.jpg
広告

 チンギス・カンの墓の場所は不明である。そのため、チンギス・カンのY染色体ハプログループも不明である。以下では、俺はチンギス・カンのY染色体ハプログループを憶測する。

俺はチンギス・カンのY染色体ハプログループはC2b系統であると憶測する。そして、俺はC2b系統は清王朝の始祖ヌルハチに等しいと憶測する。ただし、俺はC2aとC2bの違いを認識していない。

広告

チンギス・カン

 チンギス・カンの人種はモンゴロイド人種である。チンギス・カンの小人種は東洋小人種である。チンギス・カンの民族はモンゴル民族である。おそらく、チンギス・カンのY染色体ハプログループはC2b系統である。チンギス・カンのミトコンドリアハプログループは不明である。

 のちにチンギス・カンが生まれるモンゴル部は6世紀から10世紀にかけて大興安嶺山脈付近に存在した室韋(しつい)の一部族であった。室韋はまたの名を三十姓タタルと呼ばれ、多数の部族で構成されていた。9世紀ウイグル可汗国が崩壊すると、室韋はモンゴル高原に広がり、九姓タタル国[4]という国も建てて繁栄したが、契丹族のモンゴル高原を支配する頃には九姓タタルの名前は消え、阻卜(そぼく)、烏古(うこ)、敵烈(てきれつ)、達旦(たつたん)といった数部族に分かれ遼の支配下に入った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/チンギス・カン

 チンギス・カンは室韋であった。この部族は満州あたりに住んでいた。Y染色体ハプログループC2(C2b)の原郷はこの満州あたりであり、モンゴル平原でない可能性がある。C2系統はモンゴル平原の東部にもともと住んでいた可能性がある。つまり、もし室韋がY染色体ハプログループC2を持っていたならば、チンギス・カンもY染色体ハプログループC2を持っていただろう。

 The Khitan have been associated with the expansion of the paternal C3 (xC3c) Y haplogroup in Inner Mongolia.[48]

https://en.wikipedia.org/wiki/Khitan_people#Genetics

 なお、契丹はY染色体はプログループC2(旧C3?)を持っていた。契丹と室韋は非常に近い父系を持っていただろう。俺の印象では、Y染色体ハプログループC2(C2b)はユーラシア大陸の最も東側に居住していた民族である。

青銅器時代(紀元前3300年〜紀元前2000年)に、Y染色体ハプログループR1bはアファナシェヴォ文化をモンゴル平原に形成した。その後の中後期青銅器時代(紀元前2000年〜紀元前1000)に、Y染色体ハプログループQ系統が牧畜とおそらく青銅器を彼らから取り入れた。

さらに、鉄器時代(紀元前1000年から紀元前あたり)、Q系統が鉄器を取り入れて、周王朝を形成した可能性がある。その後、Q系統は匈奴を形成して、強大な国家をモンゴル平原に形成した。匈奴の領域には、C2bの原郷である満州地域は含まれていない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/匈奴#/media/ファイル:XiongnuMap.png

個人的な憶測では、匈奴の時代、Q系統がモンゴル平原を牛耳っていて、チンギス・カンの先祖は満州あたりで生活していたように思える。

右の図が匈奴の領域である。右の図を見ると、満州あたりの人々は匈奴には含まれていない。チンギス・ハンの先祖はここに住んでいたように思える。その後、彼らはモンゴル平原へと侵入した。

中世前期から中世(1000年)にかけて、最も最果てである満州地域から、Y染色体ハプログループC2bがモンゴル平原へと侵入して、モンゴル平原で台頭してきた。そして、チンギス・カンがモンゴル帝国を形成した。

タイトルとURLをコピーしました