ローマ帝国の歴史とその外観

歴史(目的別)
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 以下では、俺はローマ帝国を概観する。

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ローマ帝国以前

 以下では、俺はローマ帝国以前を提示するつもりである。イタリア半島には、Y染色体ハプログループIやY染色体ハプログループEが住んでいた。その後、Y染色体ハプログループG2aがアナトリア方面から侵入した。さらに、Y染色体ハプログループR1bが北方から地中海へと侵入した。

・エトルリア人

 俺の認識 エトルリア人がイタリア半島に住んでいた。

 エトルリア人はY染色体ハプログループR1bを持っていた。しかし、彼らは印欧語族を話していなかった。一方、ラテン人はY染色体ハプログループR1bを持ち、かつ印欧語族を話していた。アーリア人の定義によると、エトルリア人はアーリア人でなく、ラテン人はアーリア人であった。

エトルリア人は彼らの文化を2900年前から形成していたらしい。一方、フェニキア人はカルタゴを2800年に形成した。フェニキア人はY染色体ハプログループJ系統とセム語族を持っていた可能性があった。エトルリア人の活動時期とフェニキア人の活動時期は比較的に重複している。中東では、アッシリア帝国が存在した。

・ラテン人

 俺の認識 ラテン人がイタリア半島に住んでいた。

 ラテン人がいつイタリア半島へと移動したのかは不明である。可能性としては、印欧語族を持つY染色体ハプログループR1bは4500年前から4000年前にイベリア半島に侵入して、雄のY染色体ハプログループを完全に置き換えた。だから、だいたい同じ時期、または後に、彼らはイタリア半島やギリシア半島へと侵入した可能性があった。

ラテン人はY染色体ハプログループR1bを持ち、印欧語族を持っていた。彼らの生息地はウクライナ平原であった可能性があった。だから、印欧語族を持つR系統の拡散の後、ラテン人はイタリア半島へと侵入した。ラテン人は西アーリア人であった。

上記のエトルリア人もラテン人もY染色体ハプログループR1bを持っていた。しかし、彼らは欧州人と異なる母から生まれてきた可能性あるように見える。欧州人とラテン人は同じ父系であるが、母系から異なる遺伝子を持っていた可能性がある。実際、スペイン人やイタリア人は白人でない。俺の印象では、彼らは初期欧州農耕民の遺伝子をより持っているように思える。

イタリア半島統一

 以下では、俺はイタリア半島の統一からカルタゴとの戦争を提示する。便宜的に、ラテン人は古代ローマ人と同じと仮定する。

・王制から共和制

 俺の認識 2500年前に、ラテン人はエトルリア人の王を追放して、王制を廃止して、共和制を形成した。

 中東では、この時期はアカイメネス朝ペルシアの誕生の時期に対応する。アカイメネス朝ペルシアの統治者はY染色体ハプログループR1aであった可能性があった。その後、ラテン人はイタリア半島で戦争を繰り返し、イタリア半島を統一した。この戦争の時期には、アレクサンドロス大王がアカイメネス朝ペルシアを滅亡させて、大帝国を短期間を築いた。アレクサンドロス大王もY染色体ハプログループR1bを持ち、かつ印欧語族を持っていた可能性があった。

俺は古代ギリシア人も古代ローマ人も民主制を好む習性を持っていたかもしれない。俺は民主制は西アーリア人が民を統治する統治制度であると認識する。民主制はY染色体ハプログループR1aやY染色体ハプログループJやY染色体ハプログループEの統治制度でないように見える。

・フェニキア人との戦争

 俺の認識 2350年前から2150年前にかけて、古代ローマ人はフェニキア人と戦争し続けて、彼らに勝利した。

 その結果、古代ローマ人は地中海の上半分を統治する能力を実質的に獲得した。フェニキア人はY染色体ハプログループJ(J2?)を持ち、セム語族を持っていた可能性があった。だから、この戦争は西アーリア人とセム人との対決であった。西アーリア人はセム人を破り、カルタゴを滅亡させた。

中東では、パルティアが生じた。パルティアもY染色体ハプログループR1aであった可能性があった。もしプトレマイオス朝もY染色体ハプログループR1bを持っていならば、この時点で、中東全域と地中海は実質的にY染色体ハプログループRによって支配された。言い換えると、この時点で、アーリア人は地中海と中東を支配した。

領土拡張

 ローマはその領土をアナトリア半島方面と欧州へと拡張していった。アナトリア半島方面には、アレクサンドロス大王以降のプトレマイオス朝やセレウコス朝が存在した。

・東地中海方面

 俺の認識 2150年前から2050年前に、古代ローマ人はアナトリア半島の一部を統治した。

 この部分が東ローマ帝国になった。けれども、この地域の民は西ローマと異なり、Y染色体ハプログループR1bを持たなかった可能性があった。彼らはY染色体ハプログループJを持った可能性があった。また、アナトリア半島の東側はパルティアにも統治されていた。ローマ帝国(ローマ)がセレウコス朝シリアを滅ぼした後、ローマは中東方面も統治し始めた。

 俺の認識 2030年前に、古代ローマ人はエジプトを統治した。

 その後、キリストが生まれた。キリストが生まれる前に、ローマは欧州とアナトリアとレバントとエジプトを統治した。もしローマが中東方面を統治しなかったならば、彼らはキリスト教化されなかった可能性があったかもしれない。

・欧州方面

 俺の認識 2050年前から1950年前に、古代ローマ人は欧州(ガリア)を統治した。

 古代ローマ人はイベリア半島とフランスとベルギーとイングランドを統治した。この結果、ローマ文化は欧州へと流入した。さらに、キリスト教が欧州へと流入するきっかけにもなった。ローマに支配された地域は現在、先進国になっている。もしローマが欧州を統治しなかったならば、欧州は東欧や中欧のようになっていた可能性があったかもしれない。

キリスト教化と崩壊

・キリスト教化

 俺の認識 1700年前に、古代ローマ人はキリスト教に敗北した。

 言い換えると、西アーリア人は彼らの父系の創造主を失った。彼らはセム人の父系の創造主を信仰するようになった。西アーリア人はセム人系統の人間性をセム人の父から授けられた。西アーリア人は軍事的にはセム人を優越したが、社会的には、人間的にはセム人に敗北してしまった。

・東西分裂

 俺の認識 1600年前に、ローマは東西に分裂した。

 西ローマはY染色体ハプログループR1bの地域であった。一方、東ローマはY染色体ハプログループR1bの地域でなかった可能性があった。ローマが東西に分裂したというよりも、もともと東ローマはローマ(R1b)でなかった。ギリシアは西ローマでなく、東ローマに所属した。

・崩壊

 俺の認識 1500年前に、西ローマは滅亡した。

 ゲルマン民族が西ローマへと侵入して、ローマ帝国を滅亡させた。ゲルマン民族はY染色体ハプログループR1bを持っていただろう。しかし、ローマ人とゲルマン民族は同じ父を共有するが、異なる母から生まれた可能性があった。だから、彼らは互いを異なる民族として認識していた可能性があった。ローマ人は初期欧州農耕民を母系でより多く持っていた可能性があった。

電飛

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