戒律主義(形式主義)と機械法(物質法)

俺らについて
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 以下では、俺は意味を持たない禁忌(掟や戒律)に対する俺系統の認識及び判断を提示するつもりである。代表的な例には、ユダヤ教やイスラム教における豚肉の食の禁止が存在する。そこでは、それぞれの教徒は「神がそういった」ので、彼らは豚肉を食べない。仏教における戒律や修行も同様である。

または、ユダヤ教では、もしある主体がユダヤ教徒であるならば、その主体は豚肉を食べない。彼らはこれをユダヤ教徒の定義としているように見える。つまり、彼はある主体がユダヤ教徒であるのかを行動のみから定義、または認識、信仰している。

しかし、この宗教では、俺らはこの種の無意味な戒律や掟を守る必要はない。俺らは意味のある決まりを実践する。ここでは、形式主義とは主義であり、そこである主体は意味や目的や根拠を持たない決まりを守る。なお、俺は下記の思考の規範が約束であるのか、判断であるのか、決まりであるのか、命令であるのかを断定できない。

戒律主義(形式主義)

 俺系統の思考の判断1.1 俺は善と判断しない、俺が意味を持たない決まりを守る。

  俺は善と判断しない、俺が目的を持たない決まりを守る。または、俺は善と判断しない、俺が根拠を持たない決まりを守る。俺はこれらを形骸法(形式法、またはかたち法)と便宜的に呼ぶ。例えば、それらには、豚肉を食べることは悪である。なぜなら、神がそう言った。

上記に対して、人々は考えるだろう、たとえある主体が豚肉を食べるとしても、もしその主体が病気にならないならば、その主体は豚肉を食べても良いように思える。この感情に対して、彼らはアッラーやヤハウェがそう言ったからであると返答する。

ただし、次の返答は意味を持つ。例えば、ユダヤ教では、誰がユダヤ教徒であるのかを行為によって定める。つまり、ユダヤ教徒とは、ある人間であり、もしある主体がユダヤ教徒であるならば、その主体は豚肉を食べない。この時、この戒律は意味を持つ決まりである。

機械法(物質法)

 俺系統の定義及び認識2.1 機械法(物質法)とは、決まりそれは物質の存在と状態と運動を定める。

 機械法には、自然法則や組式(プログラム)がある。この宗教では、俺は機械法(物質法)と動物法(意識法)と人間法(運転手法)を使用する。機械法では、それは物質の存在と状態と運動を定める。俺らの車体(肉体でない)の存在と状態と運動は機械法によって定められる。

 俺系統の思考の規範2.2 もしある対象xが機械法であるならば、その対象xは意味や目的や根拠を持たない(可能性がある)。

 日常的には、自然法則には、意味や目的がない。機械法にも、意味や目的がない。上記の戒律や形式主義や形骸法にも、意味や目的や根拠がない。俺は機械法を動物法や人間法よりも分岐していないと認識する(俺系統の認識)。

 俺系統の思考の規範2.3 もし俺がある法を主体的に実現するならば、その法は機械法でない。

 対偶をとると、もしある法が機械法であるならば、俺はその法を主体的に実現しない。なぜなら、その法は自動的に運動する(はず)。実際、自然法則は自動的に作動していて、俺らがそれらを主体的に、または意識的に実現する必要はない。ただし、俺は行為の機械化を重視する。

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