松浦晋也(ShinyaMatsuura)の発言の喜劇性

大和民族
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 今回のパンデミックに教訓は多いが、一に「政治家には学力が必要」ということではなかろうか。かつての共通一次試験を復活させて、18歳と同時に受験させ、立候補予定者を800点ぐらいで脚きりすべきと思う。

https://twitter.com/ShinyaMatsuura/status/1349892259186003968

 上記の発言を見た後、俺は松浦は完全に愚かであると審判した。以下で、俺は彼の発言の喜劇性を提示する。一般的に、大和民族のエリートは完全に馬鹿であるが、思いつきで動くと呼ばれてきたが、上記を見れば、彼らが馬鹿であるのがわかるだろう。

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1章 自分で国家を作れば良い

 喜劇性:自称インテリは彼ら自身の国家を彼ら自身で作れば良い。

 松浦のような自称インテリの数は1でない。しかし、もし彼が上記の発言を軽率と考えないならば、その時、彼は彼自身の国家を彼自身で作れば良い。頭のよい人間だけで国家を作りたいのであれば、彼らは独立して、馬鹿な大衆に依存しない国家を作れば良い。

大和民族の自称インテリはなぜか大衆に国家の維持をやってもらって、その中で知識層としてお膳立てしてもらって、政治をやりたいように思える。独立した場合、大衆と自称インテリ国家は敵対関係になり、最悪の場合、戦闘関係になるだろう。俺は松浦のような文弱が馬鹿な大衆に戦争で勝利できるように思えない。

自称インテリが独立した場合、彼らは白人や中国人と彼ら自身で対峙する必要がある。白人にビビって何も言えない、臆病でひ弱な文弱が国家を作れるようには見えない。彼らは人間社会や人間社会における政治組織すら形成できないと俺は憶測する。

2章 松浦は統治に関して完全に素人

 喜劇性:自称インテリは統治行為それ自体を認識できない。

 大和民族は未開の民であるので、彼らは統治行為が何であるかを認識していない。彼らは政治の場を科学的な真理を主張する場所であると誤認識する。あるいは、人間模様が政治活動の場所である。政治家は実質的には統治者であるので、彼らには別にセンター試験的な意味での学力は不要である。

松浦のような自称インテリは専門や知識を過剰に重視する。しかし、人間は知識や専門では統治されない。もし知識や専門で統治されるならば、専門家があれば統治者は不要であるし、知識があれば法律は不要である。松浦は統治が何であるかをわからないので、なぜ法律が存在しているのかを全く認識していない。

一般的に、大和民族は知識や専門家を軽視するのではなく、「統治」を軽視して、統治行為に関して素人である。だから、彼らは単なる選手を統治者に祭り上げて、真理という霊言を主張させて、国民を彼らの想い通りに動かそうとする。その様子は卑弥呼のような未開社会であるが、松浦のような島の民は未開を未開と審判できない。

 もし松浦が統治者を無能と認識しているならば、彼はセンター試験を持ち出すのでなく、どうすれば、有能な統治者を生じさせるのかを考える必要がある。俺はそれはセンター試験には関係ないだろうと審判する。松浦の馬鹿っぽさや素人っぽさは人間をセンター試験で足きりすれば、有能な統治者を存在させれると考えるところである。

3章 自分で社会システムを形成できない

  喜劇性:自称インテリは社会システム(人間社会)それ自体を形成できない。

 松浦は彼ら自身の人間社会、社会システムを彼自身で形成できない。社会システムは運動競技のようなものである。一般的に、大和民族は白人や漢民族に社会を作ってもらわないと、何もできない無能であってきた。

例えば、サッカーを一つの社会システムとする。そのシステムには、システムの創造主が存在する。システムの統治者が存在する。システムの管理者が存在する。そして、システムの選手が存在する。研究者や学者はそのシステムの分析者であり、選手ですらない。

サッカー選手はサッカーシステムの研究者を同じ競技者として尊敬しないように、国民は学者や研究者、学力を彼らの競技性に関して尊敬しないだる。松浦の発言の喜劇性とは、単なるシステムの分析者が統治者や管理者、システムの創造主になれると錯覚していることである。彼らは選手ですらないのに、統治者になれると考えている。

大和民族
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