俺らの信仰

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推論行為と善悪及びその正当性

 以下で、俺は推論行為に対する善悪と正当性を提示する。推論行為とは、人間が与えられた情報から直接的に知覚できない情報を獲得する行為である。 機械推論とは、人間が与えられた情報から直接的に知覚できない情報を自動的に獲得する行為である。科学や数学において、機械推論は使用される。それに対して、他人の意図を憶測する推論は機械推論でない。 非機械推論とは、人間が与えられた情報から直接的に知覚できない情報を非自動的に獲得する行為である。 1章 機械推論  共通信仰 俺らは機械推論を陰な行為と信仰する。ただし、機械推論は病でない。  機械推論は物質世界に対応する行為である。だから、俺らはそれを無から分岐した分岐行為と信仰する。しかし、機械推論は蟲世界やヌシ世界から見ると、非分岐行為である。 俺らは陰陽一体を使用して、物質世界を否定しないように、俺らは機械推論を否定せずに、陰な行為と信仰する。そして、その行為は病でないので、癌のように除去されない。 2章 優先  共通信仰 俺らは非機械推論を機械推論に優先させる(機械推論の優先法)。  俺らは相手...
2020.09.03
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蟲師と蟲使い

 この宗教に印象は漫画「蟲師」の影響下に存在する。この宗教では、俺らは物質だけでなく、俺らは蟲を巧みに利用することを「陽な行為」と信仰する。つまり、俺らは人間の感情や視界や性欲を巧みに利用して、軍事や商業や国家運営を実行していく。 1章 蟲使い  共通認識 蟲使いとは、蟲を利用する人間である。  別称として、蟲使いは蟲師である。漫画・蟲師では、主人公ギンコは蟲を利用する人間であった。同様に、俺らは蟲を利用して、国家運営や商業を推し進める。人間の感情や欲求を利用することは、商業的な利益を俺らに誘導するときに必ず必須である。 科学のような物の世界だけでは、不十分である。感情それ自体や性欲それ自体はエネルギを持たず、物質でない。しかし、俺らはそれらを直接的に知覚して、利用できないが、間接的に利用できる。 蟲を扱うという行為の正当化は分岐によって正当化される。蟲は物質から分岐している。だから、蟲を扱う行為も分岐行為である。だから、分岐によってその行為は正当化される。  ある対象が分岐存在であるとき、その対象に対する運動は分岐運動である。俺らはこのように考え...
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ヌシと車体の関係について

 以下で、俺はヌシと車体の関係について提示する。俺らの蟲は俺らの物に依存的である。例えば、目の色は俺らの蟲に対応しているように思える。 しかし、俺らのヌシは俺らの肉体や蟲に対応していないように感じる。実際、たとえ俺らが同じ並行宇宙を無限個作り出すとしても、俺らのヌシは重複してないように感じる。たとえ俺らが世界を一度滅亡させた後、俺らは同じ世界をまた創造するとしても、生じたヌシが同じヌシであるかは誰にもわからない。 つまり、俺らのヌシは俺らの肉体や蟲から導かれないように思える。言い換えると、俺らのヌシは俺らの肉体や蟲に全く対応していない。 1章 偶然と必然と奇跡  俺らは今分岐世界を採用する。だから、俺らは世界が今現在分岐されていると信仰する。世界が存在するのは偶然であるのか、必然であるのか、または奇跡か、確率的であるのかは不明である。しかし、俺らは物質の存在と蟲の存在とヌシの存在のあり方が異なると感じてきた。 物質と蟲の間には、ほぼ一対一の関係があるように思える。それは再現可能性が存在するように思える。俺らがある物質世界における状態を用意する時、蟲世界は...
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分岐の否定の意味

 この宗教の目的は分岐である。しかし、人々の一部は男女平等を主張して、男女の分岐を破壊しようとしたり、人種平等を主張して、人種の分岐を破壊しようとする。以下で、俺は分岐の否定の意味を提示する。 1:俺らの存在の否定  俺らは分岐的世界観を採用する。そこでは、俺らは分岐して生じる。物質は無から分岐して、蟲は物質から分岐して、ヌシは蟲から分岐した。俺らは世界をこのように信仰する。 もしある対象が分岐を俺らに対して否定するならば、その対象は俺らの存在自体を否定する。俺らは俺らに対する分岐の否定をこのように考える。つまり、分岐の否定は俺らの存在や俺らの世界それ自体の否定である。 だから、君は分岐を否定する対象を君の存在を否定する対象と認識せよ。君は分岐を否定する対象を君の世界それ自体を否定する対象と認識せよ。 2:ヌシの復活の否定  この信仰の目的はヌシの復活である。もしある対象が分岐を否定するならば、その対象は君のヌシの復活を否定する対象である。なぜなら、ヌシの復活の宗教的な根拠が分岐である。 俺らのヌシは物質世界から分岐している。俺らは物質世界の...
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この宗教のあり方〜神道と仏教、ユダヤ教とキリスト教との比較

 この宗教は世界宗教でなく、民族宗教や部族宗教に近い。例えると、神道やユダヤ教に類似する。神道は大和民族の宗教であり、ユダヤ教はユダヤ教徒のための宗教である。それに対して、仏教やキリスト教は人類愛や普遍性を重視しているように見える。 以下で、俺はこの宗教の精神を提示する。この宗教は人類愛も他者への救済も説かない。他者はお好きにどうぞ。 1 この宗教の精神〜自力〜  この宗教の精神は次である。モンゴロイド人種は彼ら自身の宗教を彼ら自身で形成せよ。ネグロイド人種は彼ら自身の宗教を彼ら自身で形成せよ。コーカサス人種は彼ら自身の宗教を彼ら自身で形成せよ。 彼らは他人の宗教に依存するな。彼らは他人の宗教に乞食するな。自分の宗教くらい、自分で作れ。 これは小人種や民族や部族、そして個族にも応用される。加えて、雌や女もまた自己の宗教を彼ら自身で形成せよ。俺らは何も他人に与えない。自分でやって。自力でやって。 2 人種と宗教  俺らは人種を含む自然を否定しない。例えば、東洋人にも、キリスト教徒が存在する。しかし、キリスト教徒の東洋人の大部分は「契約」や「法」...
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知覚と奴隷、そして自然界への感覚

 以下で、俺は知覚と奴隷、そして自然界への宗教的な感覚を提示する。例えば、俺らがある対象を見て、その対象が人間と同じ形を持っていると仮定する。この時、俺らはその対象が人間の形に見えるのは、俺らの知覚が自然界によって強制、つまり奴隷にされているからであると審判する。 俺らはその対象を俺らの意志でそのように知覚したいと主張したことがない。にも関わらず、自然界は俺らの知覚を自然法則によって、俺らの意志に反して、そのように強制してきた。つまり、宇宙と物質と物理法則という自然界(system)は俺らの知覚を奴隷化してきた。 この宗教では、俺らは自然界(物質的世界)に対するこのような認識、または信仰を採用する。俺らにとって、自然界とは、俺らを奴隷化する対象である。だからこそ、俺らはその奴隷主から「分岐する」必要がある。 1:創造主と知覚の奴隷〜知覚の自由は?〜  創造主をsystemの創造者と仮定しよう。物質的世界とは、宇宙と物質と自然法則の組みと仮定しよう。その時、物質的世界はある種のsystemとなる。この時、創造主はそのsystemの創造者である。 この宗教で...
2020.08.07
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主体(subject)と対象(object)とは何?〜被写体から〜

主体は撮影者であり、対象は撮影される被写体である。たとえ話として、俺らが対象を棚と仮定すると、対象の性質は棚の引き出しである。対象を人間と仮定すると、人間は棚それ自体に、肌の色や知能は棚の引き出しに対応する。 以下で、俺らは対象が何であるかを見てみよう。 1:主体  主体とは、自己それ自体である。俺らの肉体は俺らの肉体であり、自己それ自体でない。俺らの視界は俺らの視界であり、自己それ自体でない。 自己とは、視界をみる俺それ自体である。俺が俺の肉体を車体と仮定すると、俺の視界は車体の中の3次元ホログラムである。そして、車体の中の運転手が俺それ自体である。 その運転手はホログラムをみる主体である。例えると、主体とは、車体の中の運転手である。一般的に、対象は主体に対して捉えられる。 2:対象と知覚行為  俺らが対象について考えるとき、俺らは対象を「主体によって知覚されうる何か」と考えたい。しかし、この考えでは、俺らは創造主や幽霊、ピカチュウのような空想的動物?を対象として扱えない。実際、俺らはそれらと対象と感じてきた。 加えて、もし知覚できる...
2020.08.05
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対象(object)とは何であるか?〜被写体〜

 日常的には、対象とは、棚それ自体である。対象の性質は棚の引き出しである。 例えば、俺が人間を対象とするとき、人間は棚それ自体である。人間の性質は棚のそれぞれの引き出しである。棚には、色や形や知能が入っている。 俺らが対象を被写体を置き換えるとき、俺らは対象を幾何学的に把握できる。そのとき、主体は写真の中には存在しない。以下で、俺は対象への印象を提示する。 1 対象の前に  俺らが被写体を撮影するとき、俺らは被写体を明確に捉える必要がある。同様に、俺らが対象を捉えるとき、俺らは対象を明確に捉える必要がある。 未分対象  俺らが対象を明確に把握する前、その対象はボケた対象である。俺らはそのボケた対象を「未分対象」と便宜的に呼ぶ(未分化な対象)。カメラが被写体に照準を合わせる前、その被写体はボケている。 未分対象とは、人間によって把握される何かxである。 切り出し(照準)  俺らが対象をきちんと把握したいとき、俺らはそのボケた対象を明確に定めて、対象を切り出す。俺らはこの行為を「切り出し」または「対象化」と呼ぶ。あるいは、照準を合わせ...
2020.08.04
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認識と信仰と存在

 朝鮮人は日本人と朝鮮人という名前を悪用する。その行為に対して、日本人は彼の行為を注意する。その後、朝鮮人は「日本人の定義は何であるか」と返答する。 朝鮮人は定義を質問して、日本人を黙らせたい。そうして、彼らは彼らの不安から逃避して安心感を覚えたい。しかし、この種の態度は非常に不誠実である。なぜなら、彼らは誰が日本人であるかを明確に「認識」している。 ひどい時には、一部の人間は「日本人は存在しない」と発言した。しかし、もし日本人が存在しないならば、たとえ日本人が異人種や異民族を絶滅させるとしても、その主体は存在しない。しかし、彼らはこの文に反対する。  なぜなら、彼らは日本人を認識してきた。  以下で、俺は認識と存在について語ろう。 1:認識と存在  認識と存在 もしある対象が俺らによって認識される対象であるならば、その対象は実際に存在する対象である。  上記の文の左から右への変形を思いつかない。認識されることは知覚された対象を把握することである。例えば、痴呆老人は息子を知覚できるが、それが息子と認識できない。 具体例(日本人) ...
2020.08.03
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